卒展が終わりました。
卒業制作としてつくったのは『するりんわーどしゃわー』という作品でした。シャワー型の映像インスタレーションです。
シャワールームを模したブースの中で、実際に言葉をシャワーとして浴びる体験ができます。シャワーから流れてくる言葉は「するりんわーど」。これは、「かわいいね」「ありがとう」「好きだよ」…お世辞だと感じてしまったり、本当に思ってるのかなと疑ってしまったり、いろいろな理由で受け取れない言葉のことを指します。造語です。
普段受け取られなかった言葉はシャワーの水のように流れてしまっている。だけど、受け流さなければ自分の糧になる言葉かもしれない…と少しでも思ってもらえないかな、なんて。
今までの作品は、自分には分からないと言われたり、共感できないと言われたり。作品の外っつらばかりを褒められたり。なかなか中身のところまで突っ込んでもらえないのが悩みでした。鑑賞者が置いていかれてしまうような独りよがりな作品になってしまっていたからです。
だからこそ、今回は「見てもらうなら見てもらうための作品をつくる」ということを私の中での作品づくりの指針にしていました。この作品、本当は別のテーマで作り始めました。だけど、人のための作品にするため、かなり普遍的なこと(普段受け取れない言葉を見つめ直す)をテーマに変更しました。おかげで怖いくらい共感してもらいましたが、怖いくらい反論がありませんでした。
共感は狙ってやったことなので、狙い通りにいったことは成功です。ただ、自分の込めた意味がなんの滞りもなく、なんの隔たりもなく受け入れられることに違和感が半端なくありました。この作品は、特に私の込めた意味より他のことを読み取ることはできないし、ひとつひとつメタファーを読み取っていくと答えはそれだけです。自分の出した意見に対して、「わかる」「そうだね」ばっかり言われていると、なんだか自分が王様にでもなったような気分になってしまいました。跳ね返りがない。私がこの作品を放った意味がないような気がして。
私はずっと「無題」という題がついた作品全般が苦手でした。とりあえず「無題」と名付けて、あとの解釈は観客に委ねようという姿勢が気に食わなかったからです。無題とつければ格好がついてしまう。そんなの何をつくってもクールなアートになってしまう。例えなんの意味がなくとも、観客が必死に解釈を満載させて、観客が意味付けをしていくアートが出来上がってしまう。それは作者としての責任がとれていないような気がして。
だけど、今回の経験を経て、観客が意味付けできない作品はまったく力がないのではないかと思うようになりました。共感はしてもらえたけれど、わかるー!そうだよねー!からは何も生まれないので。いつも考えないようなことを考えたくなるようなものこそ、作るべきなんじゃないか??作品自体のもつメッセージを語りすぎると、鑑賞者はそれ以上自由に考えることができない。それならば、「無題」という題で意味を語りすぎることを防ぐ方法もあるかもしれません。
あと、これは卒展の話ですが、前まで同じサークルだった友人たちの作品が超よかった。アイデアが素敵で、偉い人にも評価されてて、子供にもウケてて、ただひたすら超絶まじばちくそに悔しかったです。実際ぜんぶ好きだったので、見に来てくれた身内に勧めまくってました。悔しすぎて自分の作品破壊したかったです。
それから、他に、自分のやりたい表現と見る人にテーマをすり合わせつつ見せることを両立していた作品がありました。勝つとか負けるとかそういう次元にも並べず、悔しいとかいう気持ちにもなれず。悔しいって思えないレベル。それが悔しい。作品全体を通して作品へのまっすぐさ、真剣さが溢れていて、私の作り方の甘さ、ぬるさを思い知らされました。見ていてしんどかった。
人に見せるためとか言いながら中途半端な作品をつくってしまった。そして、中途半端にしてしまい、作品に申し訳ない。
愛せる形にどんどんアップデートしていきたいです。卒展は始まりでしかない。
今年は卒業後、社会的な肩書きで言うと無職になる予定です。笑 トロントに1年弱、ワーキングホリデービザで住みます。先のことはまったく決まっていませんが、飛行機はとってしまったので、とりあえず4月13日に日本を発ちます。学校も終わって、友人も家族もいない場所で、自分で切り開く力をつけに。あとは、英語を作品に使いたいという理由です。
卒展でどちゃどちゃに悔しがって夜に目を腫らすくらい泣いたのは私くらいかなと思うので、悔しいと思えたことを誇りに頑張ります。笑
動画は卒展アップデート前のものですが、よければご覧ください。