詩について

こんにちは。

今日は詩について書きます。というか、思いっきりいつも以上に自分語りをします。備忘録です。

私が詩を初めて書いたのは小学校1年生の時。国語で「おれはかまきり」を習ったとき、みんなで詩を書く時間があった。私は、目に入るもの「消しゴム」とか「上靴」とかを題材にして書いた。消しゴムは、頭から擦り切れて消えてくのが嫌だよみたいなので、上靴はいつも踏まれてるから痛いみたいな内容だったと思う。暗いな。楽しくて休み時間になってもそのまま書きつづけていた。

それが初めてで、それから何年かして、小学校4年生くらいからまた言葉を書き始めた。幼稚園の頃から絵本をつくるのが好きだったけど、詩みたいな書き方をし始めたのはその頃だったと思う。

何かモヤモヤすることがあったとき、言葉を書くことが多かった。日記を誰かに見られるのが嫌で、自分にしかわからない言葉で気持ちを残そうとしていく内に、文章がどんどん抽象的になった結果だった。私の中でそれは詩ではなく、言葉の塊としての何かでしかなくて、大学生になるまでずっと「何か」として扱っていた。歌詞として書いたものをバンドメンバーに見せる以外は、人に見せることもしなかったし、2、3人の読者がいたアメーバブログに細々と投稿していた。

大学に入ってすぐの頃、tumblerブームが起きた。あれはブームだったのか、私の周りだけだったのか定かではないけれど、私もtumblerを使って自分のウェブサイトをつくった。なんとなく載せた「何か」を見てくれた人が、「詩書くんだ、すごいね」と言ってくれた。私は自分が書くものが詩なんていうそんな素敵なものではないと思っていたから、この一言がかなり衝撃的だった。私の言葉は感情の排泄物で、いわば汚いものだと思っていたのに、「好きだ」とまで言われた。そこから、私が書くものは詩なんだろうか、と大学生時代4年間ずーーーーーーっと考えることになった。

所属していたサークルで展覧会を開くことが多かったので、何か作品を出すとなれば私には言葉しかなかった。当時は興味がそれしかなかったし、なんとなく見せられるものもそれしかなかった。(展覧会のために作品をつくるというのも順番が変なのかもしれないけど、さぼり癖が酷い私にはありがたい環境だった。)

私の書くものが詩だとしたら、詩はどれも感情の排泄物で、美しくないもの。独りよがりなもので、見られることを意識しないで存在できるもの、というのが当時の私の考え方だった。自分の排泄物を愛することなんて到底できないけれど、少数ながら愛してくれる人もいることが、うれしくもあったし苦しかった。こんな話をすると、芸術家気取りと言われそうで怖いけれど。

見せること、見られること、作品が生まれる根源の美醜、いろんなものがコンプレックスになって、詩も詩人も芸術もすべてが嫌いになった。私の詩も含めて、わかりにくいのに意味ありげにたたずむ全てのものが嫌いだった。意味があることをひた隠しにしてわかりやすく伝えずに意味を考えさせるってもう意味がわからないし、ひねくれすぎている。もしかして作者はなんの意味も込めずに観客に丸投げしているんじゃないか?それってずるすぎないか?とか。私にとっては、感情をぼかすように書いてきたものが始まりだったから、自分と自分の言葉を否定する行為でもあった。

でも、展覧会はやるので、人に見せる形にしなくちゃいけない。観客を無視していてはいけない。だからせめてそこにあるだけで楽しいと言われる形、ポップでとっつきやすくしなきゃと思った。初めは詩を簡単なグラフィックに起こして詩集をつくった。言葉の意味がわからなくても、めくってるだけで楽しいなら、存在していても許されるし、見たいという気になってもらえるかなと。

指の火傷が気になるやたら綺麗な画像

詩の朗読を重ねた実写映像もつくった。耳から聞くほうがわかりやすいかもと思ったし、自分で解釈しようとしなくても、映像が解説してくれる可能性があると思った。

詩を諦めて短い小説も書いた。校正を入れずに自分ひとりで書き上げたら、支離滅裂になってしまったけど。

で、シャワーをつくった。いろいろと諦めた末の作品だった。もう詩なんて大嫌いだったから、詩を破壊する制作にしようと思っていた。そうなると詩とは何かを勉強しなくてはいけないから、関連する本を何冊か読んだ。ただ、びっくりするけれど、私はこのとき誰かの詩をひとつも読まなかった。この頃、知り合いに、「もし瀬蔦さんが書くものが詩なら、他の人の詩を読まなきゃなんか失礼ですよね」と言われたことがある。確かにそうだけど、アレルギーすぎて無理だったんだよな。というか誰が他人の感情の独りよがりな自慰を見たいんだという気分だった。

キャプチャしたのバレバレの使い古された画像

今思うと、このテーマのままやれることがたくさんあったと思う。ただ、最終的には、言葉が流れ落ちていくことを別のテーマにすげ替えてつくった。もうわかりにくいと言われることも嫌だったし、わかりにくいものはこれ以上つくりたくなかった。わかりやすく共感を得たくなってしまったから。

ただ、このシャワーを展示してわかったのは、わかりやすいものは放つ意味がないということ。だって、テーマが自明だから。ということだった。つくる意味がない、いつもわかっていることの再確認は不要なんだと気づいた。詩はわかりにくくて、わからないけれど、脳みそを使うし、そういう意味であってもいいと思うことができた。先に進みたくてとりあえず自分の書くものを詩と呼ぶことにして、コンテストにも出し始めた。それはつい3年前のこと。

今日、最果タヒ展に行った。パンデミックの中で、申し訳ないと思いながらも、行かなきゃ後悔すると思ったから。今まで何をやりたかったのか、ここに全てがあった。

空間が詩だった。

詩というものは、言葉の並べ方や句読点の使い方、詩の出どころとなった感情の美醜には全く左右されず存在できるということだった。空中に吊り下げられたぶつ切りの言葉の中で、詩は言葉の連なり方だけが重要なのではないと気づいた。一度並べた言葉をまたばらばらにしてぶつ切りにして放り投げてもいい。それもまた詩として存在できる可能性がある。なんというか、今、ここにいて、この感情が溢れたのはまぎれもなく空間と言葉の力であり、ひとりひとりの心に生まれた感情そのものが詩なのだということ。それは、お前らが意味を考えてくれ!と観客に投げるのではなく、作者が狙った意味は観客の生む詩になってもいいのだということ。紙一重だけど全然ちがうんだよなあ。

会場で私はひとり目を潤ませてしまい、薄暗いところで必死に考えを綴った。それがこれ。

会場には何人かいて、それぞれがそれぞれに楽しんでいた。言葉をひとつひとつ噛み締めるように眺めている(ように見えた)人や、写真を撮って楽しんでいる人、でも、なんかもうたぶん詩の楽しみ方ってそうなんだなと思った。そして、彼彼女の心のうちに生まれている感情そのものが詩なのだと思った。

人に何かを伝える手段が言葉に一任されていることが悔しい。言葉はやはり完全ではない。ここにイメージとして感じられるものを言葉を鏡としてまるっきり同じものを映し出すのは難しい。

そういう意味で、まるっきり同じものを言い換える形ではなく、言葉と言葉の間を人の想像と感情で補完させることで、何かを伝えられるのかもしれない。それも詩なのかもしれない。というか、それが詩なのかもしれない。

もし、これが詩で、これは詩ではないという線引きをするなら、感情を生むか生まないか、ということなんだと思う。たぶん、そうじゃないかなと今はとりあえずそう思う。私がかくものはやはりまだ詩には及ばない、だからまだ詩ではないかもしれないけれど、詩の赤ちゃんくらいにはなれるのかもしれない。いや、もう、線引きをするのが野暮なのか。そこらじゅうにある、詩はある。

詩を教科書に載っている形に押し込めるのではなく、もっと解放できるはず。私は「よりわかりやすく見せるため」にいろんな形にしてやっていたことだったけど、やっぱりその実験って面白いよなあ。言葉をもっと別の形で表したい。たぶん詩じゃなくてもいいな。形式として詩と呼ぶ形に拘らなくてもいいな。そんなわけで、嬉しかった。良い方向に進めばいい。

今日は、私の中で自分の興味を思い出すことができた。とてもとてもとても嬉しい。小学生の頃の誕生日の前日のような、そんな気分。

ちなみに、彼女の詩を読めるようになったのはつい最近のこと。目指したいそのままの言葉の形が羨ましくて、苦手だったんだな。ガキめ。笑

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