こんにちは。
最近自分の性についてよく考えます。
私の性自認は女性で、ヒトの雌です。特にそれに対して疑問に思ったことはありません。ただ、数日前、夜中に腹痛で起きて生理が来たことを知り、睡眠を中断されたことに少し腹がたちました。次の日も腹痛と眠気で一日中ずっと何もできず気怠く過ごして、好きで雌やってんじゃないのにな〜と思うくらいです。
同性婚についてはもちろん賛成です。いろんな性があるのは事実なんだから、全部あるとして守られるべきだし、それのちがいによって何か幸せを得る権利に差が出るようなことはあってはいけないと思います。すごく教科書的かもしれないけれど、私が異性愛者だから、簡単に望んだものを得られるなんて、なんだかとてもずるい気がする。たまたま大多数の方にいて、特に苦しんでこなかっただけだから。
最近、朝刊で読んだコラムです。

この人の夫が登場して「あっ」と止まってしまいました。この博士のことを男性だと思っていたからです。思い込みに驚いたと同時に「女性なのにすごいな」とも思ってしまいました。博士=男性という思い込みを自分が無意識にしてしまっていたことがショックでした。経験上そう思ってしまうのは仕方ないとも思いたいけれど、刷り込まれた偏見があるということがとてもつらい。もはや夫がいるからこの人は女性、というのも決めつけになってしまうのかもしれないけど。
自分には偏見は無くて、なんでも広く受け入れていると思っていたいけれど、やっぱりそうではない。社会的に正しくなきゃいけないと考えれば考えるほど、自分が古く感じてしまう。頭で分かっていても頭で分かっているだけになってしまっているような気がします。大切な無意識と感情は、全く伴っていないような。
最近は、どんなことにも寛容で、正しくなきゃ自分のことを許せなくなってしまいました。でも、だからって、自分と違う考え方の人を否定してはいけないし、古くさいとか言うのも違うと思います。そもそも、古くさいって言うけど、時代に流されるようにただ波に乗っていくのは違和感がある。アップデートすることは大切だけど、どうして変えなきゃいけないのか、どうして求められているのかを考えなきゃ意味がないだろうから。
どんな人も攻撃してはいけないし、どんな人の幸せも守られるべきだって、ただそれだけのことだと思う。攻撃してしまった人を見せしめにする風潮に疲れている人もそれなりにいるんじゃないだろうか。でも、これはいけないことなんだって、大々的に言われなきゃ自分を見直せないところもたぶんあるんだよなあ…。
あと、自分が異性愛者であるがゆえに、同じ異性愛者である異性と完全な友人関係になることが難しいのがつらいです。いくら趣味が合って、その人としかできない会話があったとしても、2人で会ったりお酒を飲めるのはお互いに恋人がいないことが条件。性別上、何か関係が発展するような可能性があり得るなら、両方の恋人に心配をかけるようなことはしない方がいい。ひとりの人とお付き合いしているなら、無条件に愛して欲しいって願うだけじゃだめで、愛したくなるような自分であり続けることが最低限の対価だと思うようになった。それはかなり最近のことですが。
異性間の友情がアリナシというのではなく、どんな性的指向でも、相手が対象になり得る場合の友情はとても難しい。
異性であっても気が合うなら仲良くしたい。同性の友人となんら変わらない理由で「会いたい」と思う。もし相手が恋愛対象にならない性の持ち主なら、会いたいなんて思わないんだろうか、とも考えるけれど、性格や話し方や考え方、その人のことがまるごと好きなんだから、その「もし」は「もし」として成り立たない気がする。そう思いたいだけかな。
自分に恋人がいるとき、恋人の人間関係を縛っているように感じることがあります。いろんな人といろんな話をして自分を充実させてほしいと思う一方で、その「いろんな人」が恋愛対象になりえる場合、嫉妬したり不安になる気持ちに抗うことができなくなります。相手のことを尊重したいのに、自分のことも大切にしたくて、結局自分を優先させてしまう。自分の幸せを優先させることは何より大事なはずなのに、優しくないな、自分勝手だなとも思ってしまって、面倒。
性のせいで、恋愛をするせいで、誰かを独り占めしたいと思うせいで、ありえたかもしれない友情や人間同士の繋がりみたいなものを失わせてしまうことが申し訳ないし、私自身、失うことを悔しいと思う。
異性と関係を続けるの難しすぎる。というかそもそも、何が私を女性たらしめてるのか、どうして自分を女性だと思っているのか本当にわからない。
みんなただの人間なのに、まじで性別邪魔だなあ。