甘みの足し方

過去に対して厳しすぎる気がする、と考えていた。

小山田圭吾の話があった。その後の世間の反応にかなり落ち込んだ。どんな過去の物事も今につながっているとは思うけれど、今を過去だけで評価しているようで、更生を許さない世界につながっていく気がして怖いと思った。

小山田圭吾も人なんだけどな。彼の音楽が好きだから擁護したいと言う気持ちがないわけではないけれど、世界中からあんなに「間違っていた」と指摘されたら、自分のことを責めすぎて立ち直れない気がする。今の彼を評価している人はどれくらいいるんだろうか。

今は昔とは違うので許してください!って言ったとしても、なんでもかんでも許されるとは思わないけれど、みんなひとつも過ちが無いのか?と疑ってしまうほどに過去のことで攻撃されているのを見て悲しくなった。

もちろん過去の内容は最悪だった。あれが許されていた時代でなくなったことはよかったと思う。有名で影響力が強いから五輪降板というのも、それまでに謝らなかったことがだめだったこともわかる。だけど、あそこまで糾弾する必要があるんだろうか。過去を棚に上げていいとは思わないけれど、今どうであるかで判断できるようになりたいし、私は今の自分を自分として判断されたい。昔あんなこと言ってたよね、を永遠に掘り返されるなんて、辛すぎるよな、そんなの。(恋愛は相手に過去を評価されたとしても仕方ないとは思う。個人と個人の信頼の話なのでこれはまた別軸。)

たまたま見かけた記事に載っていた、ホームレスの人々を支援するつくろい東京ファンドという団体に寄付をした。無条件で個室の住まいを確保するハウジングファーストという支援をしているそう。

バイトで早朝に出勤するときに使っていた地下鉄の駅で、いつも同じ場所に同じホームレスの人がいた。その人は時々私の働いていた店に来ていた。店に来ると、実際には購入しないのに、コーヒー豆を選んでいるようにどういう特徴の豆かと店員に質問した。どの店員も購入しないことはわかっていたけれど、他の客と違う扱いをするわけにはいかないので、テイスティング用のドリップコーヒーを渡して、豆の説明をした。初めて店に来たときは路上生活をしているとは思わなかった。早朝に駅で見かけて、夏も冬も同じ服を着ていることに気づいて、初めてわかったことだった。

コーヒーなんて喉を潤すものじゃないし、水は公園で飲める。どうしてうちの店に何度も来ていたのかと考えると、昔からコーヒーが好きでよく飲んでいて、だからこそ時々どうしても飲みたくなるとかだったのかもしれないなと思う。この人に会う前から、いつか自分も家を失う可能性があるとは思っていたけれど、ホームレスの人に家を失う前の生活があったことはあまり考えたことがなかった。

家を失う可能性だけを考えるなら、貯金をしたりして自分のために備えればいいと思う。それでも寄付をしたのは、ハウジングファーストという取り組みがいいと思ったのもあるけど、記事内にあった

 「例えば路上生活になっている方がいて、その人が自己責任だったら、じゃあ助けなくていいのか、ということですよね。自己責任であろうがなかろうが、その人がどういう要因で路上生活になったとしても、やり直しができる社会のほうが、誰もが生きやすい社会ではないでしょうか」

という言葉に共感したから。自分がそうなったときは誰でもいいから助けてほしいと思うに決まっている。私もどんな理由で家を失うかわからない。信じてた人に裏切られてどうしようもないときに、信じたあなたが馬鹿だから助けませんとか言われたら無理だよ本当に。

自分も助けられたいからこそ、何かあっても救いのある世界になってほしい。長い目で見返りを求めているとも言える。ゆとりはあまり無いので決して金額は大きくないし、自分が生きる未来のための投資ではあるけれど、今困ってる人のためになればそれはそれで嬉しい。

自己責任で何かがあったとしても、やり直せる、どこかに救いのある世界であってほしい。そんなに甘くないよ、と言う人が大半だとしても、甘い方が私は好きだ。エゴだとしても、手の届く範囲で、ちょっとずつ甘みを足していきたい。

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