セツコ式アウトプットブースト法

こんにちは。最近寒すぎてブチギレかけています。みなさんはお元気でしょうか。

私は「アウトプットの量が多い」ということを褒めていただくことがあるのですが、たぶんこういうことが重なって量が増えてるんだなあということがわかってきたので、今日はそれを書いてみたいと思います。

アウトプットってなんじゃろね〜って思うのですが、アウトプットとは、必ずしもノウハウの発信だけではないと思います。というのも、ノウハウだけだったら全然発信してないので「多い」なんて言われないと思うからです笑 ので、ブログ、Twitter、作品制作など、自分の考えやパーソナリティなどをなんらかの形にすることすべてを指すと考えています。

では、さっそく方法を書いてみます。

1.テンプレート化する

これはTwitterでやっていることです。私は毎朝「外出た」という文言と、同じ木と空の写真、そのとき聴いている音楽のスクショをあげています。何かアウトプットしたいけど何を出せばいいかいつも迷ってしまう、という人はテンプレートをひとつ持つといいと思います。

また、テンプレ化するものは、できるだけ簡単なものにすることもポイントです。「外出た」で言うと、「家から5分の距離+同じ場所で構図も固定した写真+常に何か聴いているのでそのスクショ」という感じになっています。こんな風に、少しでも面倒になりにくいものにする方がいいです。そのほかに私は読んでる本をあげる「読んでいる本を積極的に晒していく取り組み」という文言と読んでる本の写真をあげるテンプレも持っています。ここに感想を書くというルールを設けると、とたんにアウトプットしづらくなるので、そのほかには何も書いていません。

テンプレート化したものを定期的にあげていると、「あの文言(外出た)の人だ」と覚えてもらえるので、それもいいなと思っています。

2.完璧・パーフェクトを目指さない

詩やブログを出すときに心がけていることです。とりあえず自分の中で「〜日までに出す」という締め切りを設けて、それを超えそうになったときはその時点のものを出すようにしています。完璧なものを出そうと考えると永遠に直し続けてしまい、直してるうちに「これって本当にいいものなんだっけ…」と考え込んで結局出さなくなってしまうことが考えられるからです。出さないよりはとりあえず出して何かしらの跳ね返りを得る方が絶対にいいです。

もし「ああ〜、あそこはこうした方がよかったな」ということがあれば、次の作品で活かしたり、思ったときにあとで直せばOKだと思っています。とはいえ、いろんなスタイルがあると思うので時間をかけるのが一概によくないことだとは言えませんが、私はそう思っています。

3.人にとっての当たり前を決めつけない

これは最近上司と話していて気づいたことです。何か自分が考えていることを共有するときに、「みんなにとっては当たり前かもしれない」「みんなはすでに知っているだろうな」と思ってしまうと、「こんなの出したって誰のためにもならない」となり、アウトプットすること自体をやめてしまったりしてしまいます。でも、「みんなにとっては当たり前」って誰が言ったんだという話なんですよね。前回のブログも社会人始めたての人向けに書いたのですが、社会人何年もやっているような先輩から「勉強になった」と言ってもらったりしたので、自分が勝手に想像した「みんなにとっての当たり前」は幻想でしかないと思います。

また、これはハードルを下げる話とはちょっと別なのですが、同じ上司から教えてもらったことです。自信がないからといって「みなさんにとっては当たり前かもしれませんが」「みなさんはご存知かもしれませんが」みたいな枕詞をつけて自分の発言をサゲることは、相手にとって失礼に当たる可能性があるということです。というのも、読ませたり聞かせたりすることは相手の時間を奪うことです。相手の時間を奪いながら価値のないものを提供しようとしているというのは態度がよくありません。時間を奪うなら堂々と、自信をもった方がいいです。お土産を渡すときに「つまらないものですが…」ではなく「おすすめのお菓子です」と言った方が気持ちいいということに近いかもしれない?ですね。

というわけで、私がアウトプットをするときに心がけていることを書いてみました。こういう記事を書くと、みなさんのためになるかドキドキですが、きっと役に立つはず!役立ってくれ!!サゲないぞ!!

こういう記事もたまにはいいですね!…ってことにしておきます。

今日の最高気温は10度。まだブチギレてませんが、数日後にはブチギレてると思います。では。

卒展終了の巻

卒展が終わりました。

卒業制作としてつくったのは『するりんわーどしゃわー』という作品でした。シャワー型の映像インスタレーションです。

シャワールームを模したブースの中で、実際に言葉をシャワーとして浴びる体験ができます。シャワーから流れてくる言葉は「するりんわーど」。これは、「かわいいね」「ありがとう」「好きだよ」…お世辞だと感じてしまったり、本当に思ってるのかなと疑ってしまったり、いろいろな理由で受け取れない言葉のことを指します。造語です。

普段受け取られなかった言葉はシャワーの水のように流れてしまっている。だけど、受け流さなければ自分の糧になる言葉かもしれない…と少しでも思ってもらえないかな、なんて。

今までの作品は、自分には分からないと言われたり、共感できないと言われたり。作品の外っつらばかりを褒められたり。なかなか中身のところまで突っ込んでもらえないのが悩みでした。鑑賞者が置いていかれてしまうような独りよがりな作品になってしまっていたからです。

だからこそ、今回は「見てもらうなら見てもらうための作品をつくる」ということを私の中での作品づくりの指針にしていました。この作品、本当は別のテーマで作り始めました。だけど、人のための作品にするため、かなり普遍的なこと(普段受け取れない言葉を見つめ直す)をテーマに変更しました。おかげで怖いくらい共感してもらいましたが、怖いくらい反論がありませんでした。

共感は狙ってやったことなので、狙い通りにいったことは成功です。ただ、自分の込めた意味がなんの滞りもなく、なんの隔たりもなく受け入れられることに違和感が半端なくありました。この作品は、特に私の込めた意味より他のことを読み取ることはできないし、ひとつひとつメタファーを読み取っていくと答えはそれだけです。自分の出した意見に対して、「わかる」「そうだね」ばっかり言われていると、なんだか自分が王様にでもなったような気分になってしまいました。跳ね返りがない。私がこの作品を放った意味がないような気がして。

私はずっと「無題」という題がついた作品全般が苦手でした。とりあえず「無題」と名付けて、あとの解釈は観客に委ねようという姿勢が気に食わなかったからです。無題とつければ格好がついてしまう。そんなの何をつくってもクールなアートになってしまう。例えなんの意味がなくとも、観客が必死に解釈を満載させて、観客が意味付けをしていくアートが出来上がってしまう。それは作者としての責任がとれていないような気がして。

だけど、今回の経験を経て、観客が意味付けできない作品はまったく力がないのではないかと思うようになりました。共感はしてもらえたけれど、わかるー!そうだよねー!からは何も生まれないので。いつも考えないようなことを考えたくなるようなものこそ、作るべきなんじゃないか??作品自体のもつメッセージを語りすぎると、鑑賞者はそれ以上自由に考えることができない。それならば、「無題」という題で意味を語りすぎることを防ぐ方法もあるかもしれません。

あと、これは卒展の話ですが、前まで同じサークルだった友人たちの作品が超よかった。アイデアが素敵で、偉い人にも評価されてて、子供にもウケてて、ただひたすら超絶まじばちくそに悔しかったです。実際ぜんぶ好きだったので、見に来てくれた身内に勧めまくってました。悔しすぎて自分の作品破壊したかったです。

それから、他に、自分のやりたい表現と見る人にテーマをすり合わせつつ見せることを両立していた作品がありました。勝つとか負けるとかそういう次元にも並べず、悔しいとかいう気持ちにもなれず。悔しいって思えないレベル。それが悔しい。作品全体を通して作品へのまっすぐさ、真剣さが溢れていて、私の作り方の甘さ、ぬるさを思い知らされました。見ていてしんどかった。

人に見せるためとか言いながら中途半端な作品をつくってしまった。そして、中途半端にしてしまい、作品に申し訳ない。

愛せる形にどんどんアップデートしていきたいです。卒展は始まりでしかない。

今年は卒業後、社会的な肩書きで言うと無職になる予定です。笑 トロントに1年弱、ワーキングホリデービザで住みます。先のことはまったく決まっていませんが、飛行機はとってしまったので、とりあえず4月13日に日本を発ちます。学校も終わって、友人も家族もいない場所で、自分で切り開く力をつけに。あとは、英語を作品に使いたいという理由です。

卒展でどちゃどちゃに悔しがって夜に目を腫らすくらい泣いたのは私くらいかなと思うので、悔しいと思えたことを誇りに頑張ります。笑

動画は卒展アップデート前のものですが、よければご覧ください。