自分の中でまとまったので書くことにする。
今回の記事は、いつも以上に知らない人が読むことを想定しているので、とにかく予防線を大量に張っておく。コロナの話を扱うけれど、真に感染したときにどうなるかという想像力が足りていない、恐ろしさがわかっていないということを晒しているので、医療従事者の方が見たらショックな記事だと思う。現在の現場がぎりぎり良心で支えられているらしいとすれば、私だったらコイツがかかっても助けたくはない。
フジロックの1日目に参加した。宿泊はしてないし、周辺の店も利用していない。交通手段はフジロックのオフィシャルツアーバス。特に「行きました!」という報告は必要ないけれど、「五輪を批判しておいて」とか「スポーツが嫌いだっただけでしょ」とかいう意見を見て、行く判断をしたことについて整理しておきたかった。チケットを買ったことは公言していたから。
ライブ中は密だとか言われていたけれど、実際には密だと感じた瞬間はなかった。アーティストに近い場所には距離を保つために立ち位置に印がされていた。そこにしか立ってはいけないという印。ライブ開始を待っているとき、立ち位置ではないところに割り込んで来た人がいた。周りが印の部分にしか立ってはいけないことを注意して、立ち退くように促し、その人は移動していった。
印のない場所でも、常に距離がとられていた。前へ前へと押されることももちろんない。声を出す人もいない。みんな手を上げて体を揺らすけれど、一度立ったその場からは動かない。私が見たアーティストがたまたまそうだったのかわからないけれど、人と距離が近いと思うことはなかった。もちろん前も後ろも同じ。YouTubeの配信で見ると観客同士が近く見えたけれど、カメラのせいなのか、角度のせいなのか、その時は本当に近かったのか、それはわからない。
行くべきか行かないべきか迷っていたとき、私の中で考えていたのはこんな感じのことだった。
- コロナを気にしない人だと思われそうだから
- 常識がないと思われそうだから
- 五輪を批判していたくせにと思われそうだから
- 新潟の人にどう思われるか怖いから
要するに自分の体裁でしか考えていなかった。私の中で「感染拡大につながるから」という理由はなかった。モデルナ製のワクチンを2回打って2週間経過していたけれど、打ってるから絶対大丈夫っしょ!とは思っていなかった。だから、もちろん自分がかかる可能性は考えていたけれど、もはや病院を頼れる状況ではないのでどちみち自分でなんとかしなきゃいけなくなると思っていた。かかった後に人に広げる可能性も考えた。ただ、一人暮らしだし仕事はリモートだし外食しないし直近で人と会うこともないし、可能性はあまり無いのではと思った。ここが意識の甘さの部分で、医療従事者の方にとってはかなりショックポイントだと思う。
次に、五輪を批判していた理由を考えた。
- 国民の声を無視した強行だったから
- 税金を使っていたから
- 開催を納得させる説明がなかったから
ここにも五輪開催が「感染拡大につながるから」という理由はなかった。本当に怒っていたし、今も怒っているし、それでも私にはこの国しかないことを心の底から残念に思う。五輪に使うお金があるならまずコロナ対策に回すべきだというのは明白だったし、全ての声を無視していたことも明白だったと思う。国民を馬鹿にされていると思っていたし、思っている。だから批判していた。でも、フジが開催をやめたところで国のコロナ対策は変わらない。
フジに行ったことを正当化しようとしているわけではない。感染拡大につながるという軸で判断する限り、正当化はできないし、するべきではない。でも、五輪を批判したのであればフジも同時に批判しなければ整合性がとれないということはない。五輪反対派だけど、批判しているポイントがちがうから。…どうしても言い訳がましくなるの悔しいけど。
五輪もフジも同じように批判している人は本当に「感染拡大になったらどうするのか」という懸念をしている人だと思う。人を集めるイベントであるということは同じだから。自分の行動が感染拡大につながるという危機感がそこまでなかったことは自覚している。そこまで先まで考えて状況を受け止めていなかった。そこまで判断できていなかった。これに気づいたときには相当ショックだったけれど、実際私は日本全体がどうというより、自分が罹患するときのことしか考えていなかった。自分が罹患することと、日本全体のことが一致していなかったとも言える。
ネットで自分の意見を言えるようになって、「あなたはそっち派、私はこっち派」という区別を簡単につけられるようになったように思う。同じように、どっち派であるかを表明することで「正しく」そして「正義感」のある「潔白」な人間であることを示しやすくなった。
私のフジロックに行く行かないの逡巡は完全にここが根源だった。チケットを買っていたけどキャンセルしたということを報告すれば、自分はコロナについて「正しく」危機感をもっていて、「正義感」あふれる振る舞いをすることができるという「潔白」を示すことができたと思う。でも、キャンセルしようか迷っていたのはこの「潔白」を示したいという欲でしかなかったことは分かっていた。自分の好感度を上げようとするパフォーマンスにしかならないと思った。(パフォーマンスであっても結果的には行かない選択の方が正しいことはわかっていたけれど、どうしても腑に落ちなかった)
行かない選択をした場合、配信を見ることはフジを認めていることになるため、配信すら見ないことが正解になっていたと思う。行かない=人が集まるイベントに反対=応援してはいけない、になるから。五輪開催時、試合のハイライトを目に入れないことを徹底していた。批判するということはそれくらいの責任があると思い込んでしまっている。本当はここまでしなくていいと思うけどな…
というのも、正直、結局よくわかんないねってなることの方が多くて、そっち派とかこっち派とかに明確に立てる方が少ないと思うから。よくわかんないというのは、全く何も考えてないとき以外に、いろんなこと考慮した時にも出てくる言葉だと思う。意見をもたないことは許されないような、正しくなくちゃいけないような、そんな気がしているけれど、もやもやしながらフジの配信を見たりすることが間違っているとは全然思わない。むしろそれが自然だと思う。
これはフジロックについてどう捉えていたかという記事だけど、最近は何にでも意見を持たなくてはいけなくて、流行りのトピックについて話さなくてはいけなくて、わざわざ疲れたり怒ったりする情報に向かって行っているような気がしてならない。それは世間の風潮的にもそうだけど、私自身もそこに思いっきり陥っていると思う。波にまんまと乗せられて、こうやってブログを書いたりしてしまう。別に誰も求めてないのに、立場を表明したがっている。また自分の話をしている。黙っていることができない。だって誰にも聞かれてない、どう思いますかなんて。だからブログなんてやめちまえよ…と思ったりもするけど、読みたい人しか読んでいないと思うので、このままにしておく。でも、特にこの記事は関係のない人に見つけられることもあるだろうし、コメントで攻撃されることも想定している。正直めちゃくちゃ怖いなあ。
出演していたアーティストは、コロナについて触れる人もいれば触れない人もいたけど、今回ほどアーティスト、ミュージシャンがライブという仕事をしているのだと思ったことはなかった。何かを作る仕事をしている人は作品そのものだけでなくてそれが生まれる根源の美しさを期待されている気がするけれど、作品だけでなく作者の心も含めて評価されるのはむごいなと思う。語気の強い言い方になってしまうけれど、コロナについて、現在置かれている状況についてどんな意見をもっていようと、彼らはそのステージに立って彼らの音楽をやってくれればいいと思う。だから、自分の期待と違って、このフェスに出演したからといって彼らの音楽を嫌いになったりする必要はないと思う。というか、嫌いになるのは失礼だとも思う。彼らがどういう思想をもっているかと、音楽の良し悪しは全く関係がない。それは作者の人間性と作品を分けて捉えるべきだという考えに立脚している。その人自身がどうとか正直どうでもいいよな。…と、立場と潔白を証明したがる自分に言い聞かせている。
METAFIVEのライブ、ものすごくかっこよかった。