『東京』をタイトルにできる日も近い

上京した。

上京したという言い方が好きなので、とにかく上京と言っておく。今の部屋のことをとても気に入っている。日光は部屋の中までは届かないけれど、日が暮れるまでは照明なしで暮らせる。まあまあそこそこ見晴らしもいい。遠くに小さな森、林?が見える。小さな森って林なのか…?

自分の部屋のことが既にめちゃくちゃ好きなのだけど、アクセスが絶妙なので、都内なのにちょっと不便で面白い。自転車を買うか、バスの定期券を買うか悩む。散歩の30分は苦じゃないのに、徒歩30分は億劫に感じる謎。

東京に来たらミンミンゼミが鳴いていたことが衝撃的だった。地元では大体クマゼミなので、ワシャワシャいってるのがセミだと思っていた。新居付近のセミは鳴いたと思ったらすぐ黙る。東京のセミは上品なのか。ここは犬の鳴き声もしないし、カエルもスズムシも鳴かない。東京はどこも騒がしいのかと思っていたけれど、私が住んでいるところは大通りから離れているというのもあって車の音もしない。こんなに静かだなんて思っていなかった。

夏だから暑いけど涼しい。吹く風は乾いているし、というか、常に風が吹いていることに驚いた。気温は違わないのかもしれないけれど、滲み出た汗が皮膚を覆うような暑さとは違うと思う。京都が暑いというのは本当だったんだな。

一人暮らしが始まって、初日は特に、自分の物しか家の中に無いことに違和感を覚えた。実家の自室とは違う感覚。帰りが遅くなるという連絡をしなくていいことや、お風呂を催促されないこと、今のところはかなり快適。親との折り合いはここ数年でうまくつけられるようになったけれど、それでも離れ時だったんだろうな。近くにいても仲良くやれるならそれは幸せなことだと思うけど。

生活ができて初めて、そのあとどう生きるかを考えることができる…という話をした。生活を立てていくことが当面(これから先ずっとかもしれない)稼ぐ目的になりそうで、今までお金に執着しないと思っていたのは生活を免除されていたからなのだなと痛感した。お金を稼ぐことにあんまり興味がないという話をすると黙って聞いてくれていた人たち、本当は苦笑いしたい気持ちだっただろうな。笑ったり否定したりせず聞いていただいてありがとうございます…。

引っ越しでほぼ全ての有り金を失ったので、今後の生活のことだけを考えている。それは未来を考えているのと同意なわけで、無意識に生命をつなごうとしている。生活のために生命をつなぐのか、生命をつなぐために生活をするのか、という矛盾しそうでしない話。どう生きるかはその後なんだろうなあ。そうやって歳をとるんだろうか。

社会人のモチベ、結局自分で生活すればモチベとか言ってられないことがわかった。一旦上がった水準を下げることはなかなか難しいし、私はたぶん今以下の生活をすることはもうできない。お金を稼いで生活をするということ、そういうことだったんだなあと思う。まだたぶん経験した方がいいことはたくさんあって、やっぱり自分の選択でできることは経験していきたいと思った。

生命に頓着しないというのも、それ以前に生活ができているからであって、目の前の生活がいっぱいいっぱいだったらたぶんそんなことは考えないんだと思う。生活が回らなければそれはそれで投げやりになるんだろうけれど、生活がギリギリできるくらいだったら生命のことなんか考えないのかもしれないな。

一人暮らしを始める、ということを話したら「新生活だね」と言われたけれど、確かにこれは今までにないほど新しくて、きっとこれが人生第二章なんだと思う。やらざるを得ないとはいえ、とても難しいことをやっているみんなまじスゲーと思う。みんな人生の舵取りをしている。仕方なくやっているとしても、生きているだけで偉すぎる。全員。

今さっきドバトの鳴き声が一瞬聞こえて、なんだか嬉しかった。あんなにうるさいと思っていたドバトの声に喜ぶ日がくるとはな。

オリンピックのこと、よくわからなくなってしまった。開会したら結局お祭りムードになったことも、なんだか取り残された気分になっている。私が見ているインターネットが世論すべてではないことはわかっているけれど、それでも開催前と今じゃ雰囲気が変わっている。本当にやるの?って言っていたこと、まだ数日前の話なんだけどな。なんだかんだ言って楽しかったでしょ、だから結果オーライだよねって誤魔化されそうで怖い。頑張っている人がいることは事実だけど、この皺寄せは誰にいくんだろう。頑張っていたらどんなことだってしていいのか?とかいう極論を投げそうになってしまう。

開会式で、各国の旗手がどうして男女なのか、それもよくわからなかった。多様性とか言うならどうしてそういうことになるんだ?同性同士だったら不平等なのか?もしかしてまだそうなのか…?私が性別を気にしすぎか…?ゲーム音楽が使われていたこと、適当に国民を盛り上げて黙らせようとしているのかなと思ってしまった。これ食わせとば黙るだろってあしらわれているように感じてしまった。あの曲が使われていたことが嬉しい人もいて、それはそれでいいはずなのに、私はどうしていいかわからない。なんだか自分ひとりだけずっと駄々こねてるみたいで悲しくなった。ずっとずっと、もやもやしている。

中止を求める40万人の署名は届かなかった。私の名前も、友人の名前も入っている署名。国民の声なんてもう届かないのか。内閣不信任案もだめだった。どうしたらいいんだろう。

コロナがあって、オリンピックがあって、政治の話題を口にしやすくなったような気がする。以前から友人たちとは政治の話はそれなりにしていたけれど、ブログに書いたり、SNSで発言したりすることはできなかった。でも、考えたり話したりすることはタブーではない。今のところ日本はそれを禁じてはいないわけだから、その間に政治が自分事になってよかった。本当に。自分の立場をはっきりさせることは怖いけれど、自分がどう思うのか考えることは大事だと思う。当たり前のことを言っているけど。

人生、考えること多すぎて難しい。生きるの本当に大変。…って言いながら、また目の届かない場所に押しやっている。「難しいね」と「大変だね」の専用埋立地は、いつ限界になってもおかしくない。

森と林の違いを調べたけど、木が生い茂って盛り上がってるのが森で、木が並び立ってるのが林らしい。こういう辞書を引けば出るような確かなことが世界にもっとあればいいと思う一方で、辞書に載っていないことがもっとあってほしいとも思う。どこまでもわがままだな。

最近の話はすぐに最近じゃなくなる

  • 東京に行っても緊張しなくなった。感情が変わっていくのはいいことだと思う。同じことを違うように感じられるようになるというのは二度三度美味しいのと一緒。高校生が10年も前のことになったのは本当にいつもびっくりしてしまうけれど、10年経ったことは妥当だなとも思う。その間にかなりいろんなことが起こったし、自分も少しずつ変わってきたと思う。生きていればいいことあるよというのは個人差しかないけれど、私の場合はいいことがあった。今が一番いい。生きていていいことは、知識を増やせること、いろんな景色を見られること、感情が変わること、好きなものが増えること。特に好きなものが増えるのは最高。音楽も、本も、映画も、人も。
自分でとった格安ホテル。
部屋番号の数字から謎の汁が出ていてかなり怖かった。
  • ずっと忘れられなかった小説を買った。小1の頃、5つ上の姉に怖いから読んでほしいと読まされた児童向け小説。怖いから読んでというのはよくわからなかったけれど、当時は姉に従順だったのでとりあえず読んだ。内容はあまり覚えていなかったけれど、「怖かった」という印象だけがずっと残っていた。ふと思い出して探してみたら中古で買えたので、約20年ぶりに読んだら今でもやっぱり怖かった。恐怖の感情を復習をしたのは初めて。これはたぶん大事な経験になる。
  • オリンピックに怒っていた。宣言と開催が重なったことが発表されたとき、国民が馬鹿にされていると感じたけれど、家で怒っているのは私だけだった。そういうものかと思った。そういうものなんだ。コロナは私を前よりずっと国民にしたと思う。今まであんまり影響を受けてこなかったのか、鈍感だったのかわからない。ただ、年金どうせもらえないんでしょとかいう以上に、国の決定によって明日の予定が変わるくらい身近になった。選挙に行きたくなくなるのめちゃくちゃわかるし、私も今回のことで行きたくなくなった。とか言いつつ絶対に行くけれど、行きたくなくなるのはわかる。「馬鹿にされている」「無視されている」と感じた時点で、諦めたくもなる。行きたくなくなるのわかるな〜と言ったら家で猛批判くらった。そういうものなんだ。
静止していたとは思えないほど躍動的な蛙。(手ブレ)
  • リモートでしか会ったことない人と会った。初めて対面すると、やっぱり第一声は「はじめまして」になっちゃって、そのあとは自己紹介していた。いつも普通に顔を見てるから、マスクをちょっとずらさないと認識できない感じとか、たぶん今しか味わえない。あとは、歩き方の癖、目の合うタイミング、話しているときの手の動きとか、そういうのを見ながら人の厚みってこういうところにもあるんだよなと思ったりした。話している内容だけが人ではない。
  • 詩の教室に行った。詩人が講師をしている教室で、受講者もレベルが高そうだった。同人にも入ってなければ賞もとってないような身で行くようなところではなかったのかもしれないけれど、講師が話す言葉は全部わかったから、たぶん行ってもいいんだと思う。というか、その身だから学ぶべきなんだよな。詩ってこうあるべきなんじゃないかな、こういうのも詩だとしたら面白いんじゃないかな、と思っていたことすべて肯定してもらえて本当に嬉しかった。詩のこと真剣に考えてていいんだと思った。嫌いとか言いながら詩のこと考えるの大好きじゃん…と思った。嫌よ嫌よも好きのうちとは言うけれど。昔の言葉は本当にすごいな。
10分歩くと足を負傷するビーサン。
痛いのに音が好きで時々履いてしまう。
  • 朝ごはんが食べられなかった。しばらくの間、胸と喉に鉄球が押し込まれているような感覚が続いていて、何も取り入れられない状態だった。朝ごはんは入らないし、音楽も小説も無理だけど、詩なら入ると思った。というか、今は詩しか入らないと思った。鮎川信夫を読んだ。少し体が動くようになって、また別の詩を読んだ。その日はなんとなく昨日よりはましになって、夜ご飯も少し食べた。ちょっとずつ元気になってきて、今はすっかり良くなった。詩に助けられるなんて癪だけど、いつの間にか詩は私にとって、そういうものになっていた。そのあと小さな詩を書いて、また少しだけ救われた。
  • 友人に誘われて琵琶湖に行った。スパイス屋さんでスパイスを買って、はじめてイチからカレーをつくって、平たい石を探して水切りをして、夏のことを褒めまくって、夕暮れ前に銭湯に行った。とても楽しかった。自分が楽しめることも、一緒に楽しんでくれることも嬉しかった。そういえば、陽を浴びながら少し日焼けを気にするようになっていた。少しは大人っぽくなったと思う。
ここぞとばかりに活躍するビーサン。
  • 明日は引っ越し。引っ越し、新しい街、上京という響きは最高。ただ、この数ヶ月で思い出がまた増えて、場所からも人からも離れるのが寂しくて仕方ない。でも、引っ越すことで会えるようになる人もいるし、地元にもまた帰ってくればいいし、自分の居場所が増えるのはとても素敵なことに思える。どこにいても遊ぼうと言ってくれる人の存在がありがたいし、私も積極的に遊ぼうと声をかけたい。すぐ戻ってきたとしてもそれはそれでいいってことにしよう。
写真が地味すぎるので
綺麗なだけの琵琶湖でも見てください。

カレーをつくってみてわかったのは、入れるものを入れて煮込めばそれなりにはなるということ。カレーは日本の鍋料理くらい調理人を許してくれる懐が深い料理だということ。もはや食べるガンジス河。何言ってるのかわからくなってきたので、終わりにします。

おわり。

ペルゲン

こんにちは。

何を試しても髪がぱさつくのが悩みだったのですが、トリートメント洗い流し過ぎ説に辿り着きました。トリートメントってスッキリするまでいくと流し過ぎっぽいですね。20年以上知らなかったです。気持ち悪さとの兼ね合いむずすぎ。

コンクールに向けて詩を直し続けていました。今の会社に入ってからは「趣味は詩を書くことです」とか、キャラ付けするために公言するようにしているけれど、正直詩を書くの趣味はキモくない…?と思っています。詩を好きにはなかなかなれないのに、それでも書いてしまうことはコンプレックスとしてずっとある。「それでも書いてしまう」って陶酔してんのか?と思われそうですが、それでも書いてしまうので名前を与えるなら詩になるという感じです。それくらい詩は存在が危ういし、書き手の判断にそれが詩であるか否かが委ねられているなと思います。「それが詩」って音は「某」になるんですね、どうでもよすぎますね。

清書するために原稿用紙を使っているとは思えない

詩を読むことで生まれる感覚に震えるたびに崇拝しそうになるけれど、どれだけグロテスクな素性か知れないのに「なんか良い」でステータス保てる詩とかいうやつはやっぱキモい。でも最近、「詩を嫌いなまま書くことが武器になるかもしれない」と言ってもらって、詩を好きになる努力はもうしないことにしました。ただ、大きな声で嫌いだと言うためには詩のことをきちんと知る必要があるし、もっと「良い詩」が何かを判断できて書ける必要がある。大嫌いな詩を貶めたい、そのために書かなくてはいけない……。

この原稿用紙よりも他の方が「ザ」だった。
「ザ」は自己判断可。

それから、コンクールに向けて三編書いた中で、一編どうしてもうまく書けないものがありました。うまく書けないというかその詩自体が面白く感じられなかったので完成させられなかったという感じでした。その詩っていうのは「これを伝えよう」と思って書いたものだったのですが、言いたいことがはっきりしてるものは作品にする必要が本当に無いなと思いました。言いたいことがはっきりしている、メッセージがあるということは、ただ言い換えてるだけとも言えるなあと。言い換え方が新しくて凝っていれば面白いのかもしれないけれど、ただ言い換えただけではなかなか面白くならなくて。これがメッセージです!ってわかりやすく言えるならそのまま言えばよくね?っていう。でもまだ普通にそういうものを生成してしまっていることに気づいたので、やっぱりまだ私には罵る権利がないですね。

この作品は、特に私の込めた意味より他のことを読み取ることはできないし、ひとつひとつメタファーを読み取っていくと答えはそれだけです。(中略) 跳ね返りがない。私がこの作品を放った意味がないような気がして。

なんか前もこんなこと言ってた気がするなーと思ったらばりばり言ってました。まだ尖ってるなあ、と言われてキレてたのもこの頃だった気がします。3年前?大学卒業間近。確かに尖ってる、今ならそう思うけど、それはそうだけどさあ。

今回まあまあ久しぶりにきちんと詩を書いたので、その内ちゃんと出します。出しますとか言いながらなかなか出さないのは、自分と詩を切り離して別物扱いしたいのに、ひとつにしたい気持ちもあるからです。詩と私自身を切り離して捉えてもらいたいのですが、「私がつくりました」を避けることはできないんですよね。生産者の顔が見えるのは安全ではないこともある。詩は私の要素が色濃いけれどそのものではないので、ドッペルゲンガー的かもしれない。

こないだ、ドッペルゲンガーってどっちが消えるんだと思う?って話をしました。ドッペルゲンガーに会ったら死ぬと言われてるけれど、ドッペルゲンガー側もこっちをドッペルゲンガーだって思ってるに違いなくて、だったらそれってどっちが死ぬの?っていう。結論、打ち消しあって存在しなくなるんじゃない?ってなりました。ぷよぷよみたいに。ぷよぷよも互いに存在を打ち消しあってると思うとなかなかにホラー。フィーバーで消しまくるの楽しいのですが。

ドッペルゲンガーって言葉いいですよね、発音してて気持ちいい。ドッペル部分が発音として気持ちいいんですけど、そのあとにゲンガーっていうドッペル感がないパートがつながっていて、ドッペルゲンガーは単語内にギャップがあるんですよね、それがいい。あと、「ッ」と濁点が入ると無条件にかっこいい。ザッカーバーグもそうだし、ボルボックスとかもいい。あー、でもマツボックリは際どいラインですね。かわいさを絶妙に攻めてる感じがするので、無条件にかっこいいは言い過ぎたかもしれません。ドッペルゲンガーを略すならドッペルかなと思うのですが、ドッペルゲンとかペルゲンもいい気がします。ペルゲンわるくないな、ペルゲン。

詩のこと書くの疲れたので、ドッペルゲンガーで(私が)盛り上がったところでやめにします。あ、トリートメントどれくらい流すのがベストか知ってる方いたら教えてください。

では。

とりあえず箇条書しとけばいいと思い過ぎ

こんにちは。

毎日散歩していたら、最近関節を痛めました。散歩って健康にわるいこともあるんだねと言われて笑いました。みなさんはお元気ですか。

  • 入社してから1ヶ月が経過。中学生ぶりに何もないGWを過ごしています。高校生から基本的にバイトしていたので、自分のしたいことだけで過ごせるGWってかなりレアだな〜と思います。この1ヶ月で、生活のリズムをつけられるようになりました。決まった時間に寝て起きて活動できることで心身ともに負担が減っている。フルリモートはかなり快適です。環境を整えてくれている弊社に感謝。弊社に感謝、語呂がよすぎる。社会人とは何かをずっと考えているけれど、まだ全然わからないので、これはもう少し考えます。
  • 植物園に行きました。サボテンの針って近くで見たことありますか?鉢植えに入ってるかわいいやつじゃなくて、絶対砂漠でしか見ないでしょというでかいサイズのやつです。針がね、魚の骨みたいなんです。半透明で、平べったくて、緩やか〜な弧の鎌っぽい形。先の方はぴんっぴんに尖ってて、それはもう魚の骨。普段見ている木とか草からは想像できないくらい激しいフォルム。めちゃくちゃテンション上がりました。癒し系だとばかり思っていた植物の意外な一面でした。あのでかいサボテンが忘れられない。あと、盆栽も初めて見たけどかっこよくて盛り上がったし、ラフレシアにも興奮してわりと長く張り付いてました。入場料200円は破格すぎる。
驚くべきことに植物園の写真は1枚もありません。
植物園付近で撮った川の写真をあげておきます。
  • 手書きの日記を始めました。ブログに書くほどでもない切れ切れの思考を取り出すため。あとは、忘れたくないことを忘れないため。前回のブログでも書いたけれど、記録しないと無いに等しくなってしまう気がするからです。忘れるのが怖いとか、無くなってしまうのが嫌だとかって、今まであんまり思ったことがなかった。自分が生きていた証拠を残すことを意識し始めたのは、思い出に励まされたいと思うようになったからかもしれない。これからも長い時間が続いていくということへの覚悟か。
  • 詩のコンクールの締め切りが近い。コンクールとコンテストという似た言葉がありますが、前者はフランス語、後者は英語であるという点が違います。日本語上の使い分けでは、コンクールは絵画、文学、音楽など、芸術と呼ばれてそうなもので、コンテストはそれ以外に使われることが多いみたいです。でも、使い分けに関しては確かなのかわからない。こういうのって確かな情報に出会うのに苦労する。大体は誰かがやってるまとめブログとか知恵袋を見ることになるけれど、それも他のブログの受け売りで書かれていたり出典もないものだから、信用するのは気が引ける。ちなみに詩は絶賛迷走中です。自分の理想が無いことが問題ですね。目的地がないと地図を広げられないのと同じ。地図を持たない散歩は楽しいのに、これはとても苦しい道のり。
直し始めの詩。やたら厳しく雑なツッコミが入ってますね。
つらいです。
  • 大勢の前で話す時、何を話すべきか迷う。私はその場の大衆ウケを狙う癖があるようです。だけど大衆ウケは平均化されているがゆえに刺さりづらいし、広がらない。そして私も楽しくない。自分のファンを増やそうと思って話すのがいいのではとアドバイスをもらいました。盛り上がりを気にしすぎないこと。怖いなら大衆ウケから自分のことへのグラデーションをかけること。これが好きな自分をどう思われるかとかが怖いというのは、本棚を見られるのが怖いと同意。ブログとかなら跳ね返りを気にする必要がないので、わりとなんでも書けるんだけどな。というか、好きなもので人を判断してるんじゃないだろうな…と自分がとても怖くなりました。いや、今はやめておけ、自分の首を絞めるのは。
  • 理由を話せば人が出る。社内向けに7分間の自己紹介プレゼンを用意するとき、趣味らしい趣味がなくて困りました。ただ、趣味で語れなくても、人生の選択の理由に自分が出るかもしれない、と思ってそれ以外の話をしました。どうしてイエローナイフに行ったかとか、どうして就職しようと思ったかとか。表層的に同じような選択をしていても、その理由は千差万別なのだし、そこに人柄が出るはず。自分が人と違う人間である限り思考回路は違うので、自己紹介として妥当性はある!…とか言って、趣味が無いことから逃げましたが、どれも深くないことについてのコンプレックスは未だにある。
なんの脈絡もなく最新のシフォンケーキ写真を挿入。
この日は不調でした。
  • 【言語化から逃避する方法:なんとなく〜・言語化すると野暮・適当な言葉がない・言葉を選べない・言葉は不自由】これらを禁止したいけれど、なんとなく思ったときの気持ちを言語化するのは野暮な気がします。気持ちはいろんな気体が混ざり合った空気のようなものだから、そこに適当な言葉はないし、言葉を選べないのは当然だからです。本当に言葉は不自由ですね。…って書くとすごくかっこいい感があるけれど、何も言ってないんですね。言葉は不自由ですねじゃねえんだわ。努力しろ、努力を!と自分に言い聞かせる日々です。
  • 1ヶ月ぶりくらいに自転車に乗った。最近は車か徒歩だったので新鮮でした。体剥き出しでけっこうな速度がでて怖かったんですが、たったひと月乗らないだけで、こんなにびびってしまうとは。歩くと考えたくなるけど、自転車に乗ってると歌いたくなる。自転車に乗ったのは買い物のためでした。買ったものは、生クリーム、ワックス、フェイスクリームで、なぜか全部白い液体系でした。白い液体ばっかり必要になることもないし、なんだかおもしろかったんですが、Twitterに書くほどでもないのでやめておきました。ブログはいいねが無い世界でいいねと思っています。

関節痛めて思ったけど、26年間同じ部品でよく頑張ってるな〜と思います。体は一生ものだよとはよく言うけれど、メンテナンスしなきゃそりゃあ一生は保てないよな。一生保つことを前提に自分の体を捉えられていることは幸せだなと思います。

では。

26歳は2回くる

こんにちは。

眉毛の絶対剃っちゃだめだったところを勢いよく剃ってしまいましたが、みなさんはいかがお過ごしでしょうか。

4月16日はお誕生日でした。齢26を迎えたらしいです。父親に散々「アラサーやんwww」といじられていたのですが、アラカン、数年後にアラセブの人に言われてもなんのダメージもないですね。ぴっちぴちやろがい!

16日に日付が変わってすぐに電話をしていたのですが、お誕生日嬉しい?と聞かれて、うーんとなってしまいました。華のセブンティーンとか、18禁解禁やなとか、お酒が合法になるねとか、そういうイベントは全て解除になってしまったからなのか。いろんな年齢の人と関われるようになって1年の差を感じなくなったからなのか。まあとにかくもう何も感じないんですよね。で、牛乳の賞味期限が誕生日だった時の方がテンションが上がるという話をしました。

当日は家族にお祝いしてもらい、『ペスト』(伝染病の話なのですが、誕生日をどれだけ意識してないかがわかるチョイス)を読んでいました。そしたら、物語の始まりがまさかの4月16日でした。これは多いにテンションが上がりました。これこそまさに牛乳の賞味期限現象。

伝染病の予兆として鼠が死んでいてウケた

去年の25歳の誕生日は今年から働いている会社の面接の日でした。今年の誕生日はその会社の同期におめでとうをもらい、人生わかんないもんだなーという感じでした。プレゼントするから欲しいものリスト公開して!と言ってもらったのですが、自分の欲しい物リスト、改めて見るとまじで本ばかりかつ偏りがひどかったです。その本ばかりのリストを公開して気づいたのですが、欲しい本しかり、持っている本しかりを教えるのってめちゃくちゃ恥ずかしいですね。自分しか知らない部分がスケスケになるというか。普段服で隠れている変な形のアザを知られるみたいだなと思いました。…まあアザとか無いんですけど。

最近は、知らないもの全部を知りたい欲がすごいです。仕事も早く知りたいし、人がつくりあげている技術や文化や文明も、歴史も自然のことも全部知りたい。だから知らないことがあるとめちゃくちゃ悔しいし、悔しいけどとても嬉しい。知らないことがある限りいくらでも暇潰しできるし、いつまでも生きていられる気がする。

最近になってようやく映画を観たいと思って観るようになりました。数年前までは、映画は気に入ったものをセリフ覚えるくらい繰り返し観たり、本も音楽も同じものばっかりで新しいものはなかなか手を出しませんでした。今は知らないものに触れるということの面白さを知れてとても幸せだし、いいなと思えるものが増えて嬉しいです。

現代は、パソコンがあればDVDもCDも借りに行かなくていいし、本屋に行かなくても読みたい本は明日届くし、本当に最高だなと思います。ただ、常に自分にとって新しいものに触れられるからこそ、ひとつひとつの記録をきちんと残しておかないとすぐ忘れてしまうなと思います。日記も毎日書いているとどの一日もずっと存在し続けるのですが、そういう記録がないと、あったはずだけどもう無いものになることが多いなと。噛み締める時間というのを自分でつくらないと、新しいものにどんどん流されていってしまう。公開非公開に関わらず、記録や証拠を残すことは本当に大事。

上6冊は最近自分で買った本、下はもらった本。もはや富豪。

積読しないように読み終わるまで本を買わないマイルールがあったのですが、そのルールでいくと、しばらく何も買えないことになりますね。今ある本を興味の鮮度があるうちに読み切りたい。

そういえばこないだ初めて『星の王子さま』を読みました。よくいると言われている大人の典型を風刺したような内容なのですが、示唆に富んでいて言葉も易しいので、年代や人によって感じることもさまざまあるお話です。インターネットの情報によれば聖書の次に読まれているベストセラーらしいです。で、読んだのですが、

「大人ってこうだよね、成長すると盲目になるよね」と言われた気分。いわゆる「こういう大人」にならないように気をつけてきた自分にとっては、決めつけないでくれよと少し悲しくなった。もし初めて読んだのが子供の頃で今回が再読だったなら、大人になった今でもあたたかく幸せな気持ちになれたのかもしれない。
なんにしても、とにかく私はもう大人なんだなと痛感した。

っていう感想になってしまってショックでした。

読んだら絶対「いい話だな〜」「好きだわ〜」ってなれると思っていたので期待しすぎたのかもしれませんが、大人はこういう生き物だから諦めろよと言われているようで残念な気持ちになりました。こうならずに生きることもできるはずだし、こうならずに子供の目線でいることもできるはずなのに、全部否定されているようでとても悲しくて。でも私の感想はもう完全に大人の立場から出ているわけで、っていうことはもはや私は子供じゃないんだなと、子供の心を忘れたくないだけで既に大人なんだなと思いました。私はどういう大人になったんだろう。

誕生日が来て歳を重ねましたが、私の友人はみんな「永遠に14歳なんやけどw」って言うし、事実私もそんな気がしていました。でもやっぱり積み重ねてきた時間の分だけ、それなりに変化してきているみたいです。まあ全然悪いことじゃないんですけどね。今が一番楽しいし、今の自分が一番好きだし。

歳とったな〜と思いつつ、まだまだ若いな〜とも思うわけで、今やりたいこととやれるようになりたいことを考えて生きてたいな〜ってそんな気持ちです。とりあえず、四半世紀よく頑張ったってことで、新たな四半世紀も、記録になる1年を重ねたい所存。まじで人生初心者にしてこの抱負は偉いと思いますね。

ちなみに、25歳をやっていた1年間、ずーーーっと「来年は26歳だ〜」って思ってたせいで去年はもはや26歳の気分で過ごしてしまったんですよね。今年は貴重な26歳2年目をエンジョイします。大人になったこと、絶対言い訳にしたくねえ〜。

王子さまに「えっ思ってた大人とちゃう」って言われたい。

それでは。