詩集『Poolside Ensemble』について

こんにちは。

ブログ書いてないな〜と思ってたら約3ヶ月経っていました。みなさんお元気でしょうか。

最近詩集をつくりました。今回はそのことについて書いてみたいと思います。お買い上げいただいたみなさん本当にありがとうございます。まだ手に入れていないみなさん、ご興味があればぜひ一冊よろしくお願いします。

さて、詩集をつくろうと思った経緯としては、しっかりした製本の本を一冊つくりたいという思いが出発点でした。ただ、私の詩は短いので、一冊しっかりしたものをつくろうと思うと何十編もの詩が必要になります。しかも作風がコロコロ変わるので、何十もつくっていてはひとつの本としてまとまりがなくなってしまう懸念がありました。作風が変わらないうちにパッケージングしてしまおうということで今回は26ページ12編という形に収めました。

しっかりした製本のものは、今回のような10〜15編くらいの詩集を何冊かつくってから、ベスト版的につくろうかなと思っています。今回のものは、いうなればデビューアルバムかなと思っています。収録数も音楽アルバムっぽいし。アルバムごとなら作風が違っても問題ないかなと思ったりして。

詩集をお買い上げいただいた方にその場で読んでもらえることもあるのですが、そのときに「どういう気持ちで書いたのか」「どういう意味なのか」を問われることがあります。この問いに関して言えば、「何も考えてないし、何も意味はない」ということになります。

今回の詩集、『Poolside Ensemble』は、詩を意味からどこまで解放することができるかという実験を行っています。言葉を用いている以上、また、言葉と言葉につなぎ目がある以上、言葉から意味を切り離すことは不可能と言っても過言ではありません。詩はそういう言葉がもつ意味以上に主に比喩を使って意味を含ませることでその深遠を探る文学とも言えます(多くの芸術はそのようにつくられているのかもしれませんが、私にはわかりません)。興味があるのは、そういう風に書かれる詩を、意味から解き放つことで純粋な「詩とは何か」を求めることです。

この「詩とは何か」を求めるにあたって、作者が見えない詩にするというのもテーマに据えています。詩は自分の感情を込めて書くもの、自分の体験や思いなどをその人がもつ視点で書くものとされているような気がしますが(専門家ではないので曖昧な表現ですみません)、この作家性とも呼べる部分を全面的に排除するように心がけています。あらゆるものを取り去ってもなお詩は詩として成立するのであれば、純粋な詩とは何かに近づけるのではないか、そう考えています。性別や年齢が推測されないような筆名にしているのもそのためです。とはいえ、言葉選びというところに作家性が出てしまうので、完全排除はできないのかもしれません。本当は自分以外の知能に詩を書かせたいのですが…。

話を戻しますが、書かれていることには意味はありません。そこに意味が発生しているように見えるとすれば、この実験は失敗していることになります。が、その足掻きをみなさんに目撃してもらうことに意味があるとも考えていますし、目的は何もそれだけではありません。

もうひとつ私が詩で目指していることは、何か日常生活では見ることができない景色や感じることができない感情を発見してもらうことです。先述の目的は書き手としてですが、こちらは読者目線での目的です。読んでいただいた方に何か発見のあるものを書きたいと思っています。それはやはり知っている感情の焼き直しでは面白くないと思うからです。答え合わせではなく、私の詩は未知との遭遇であってほしいのです。それに、私には人並み以上の感受性はありません。感情のユニークさや情緒の書き起こし能力の無さからこういうことを考え始めたのかもしれません。

それでも「これは〜の詩だな」「これは〜について書かれているな」と感じてくださったならすべて正解だと思っています。それはみなさんの想像力が素晴らしいのであって、それを働かせるお手伝いできたのならこれほど嬉しいことはありません。そこから生まれるものは百通りあるかもしれない。私は無意味を目指しているにもかかわらず!ですが、たくさんの意味が生まれることは人間だからこそであり、とてもロマンチックなことだと思います。

既知の単語を並べて未知を書くのは簡単ではないので、そういう意味でも失敗しているかもしれません。であれば失敗作なのかもしれませんが、ぜひ意欲作、野心作と呼ばせてください。

考えてもらった説明文が気に入っているので、最後に載せて終わります。買っていただけると心から嬉しいです。よろしくお願いします。

「でも、人間そっくりにつくったタイプはこめかみに穴が開くと急激に衰えると聞いたけど全然まだ動いてるそうじゃないか」
詩誌聲℃同人、南北東西の第一詩集『Poolside Ensemble』。
どこまでも意味を宙吊りにされた言語たちが浮遊する詩的空間。
プールサイド的、夜行性の電話ボックス的、元チョウチンアンコウ的言語感覚を放つ新鋭詩人の清新な輝き!
飛びかう鮭の謎と塩イルカの本質に迫る野心作。
全26頁。

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フジロックに行った話

自分の中でまとまったので書くことにする。

今回の記事は、いつも以上に知らない人が読むことを想定しているので、とにかく予防線を大量に張っておく。コロナの話を扱うけれど、真に感染したときにどうなるかという想像力が足りていない、恐ろしさがわかっていないということを晒しているので、医療従事者の方が見たらショックな記事だと思う。現在の現場がぎりぎり良心で支えられているらしいとすれば、私だったらコイツがかかっても助けたくはない。

フジロックの1日目に参加した。宿泊はしてないし、周辺の店も利用していない。交通手段はフジロックのオフィシャルツアーバス。特に「行きました!」という報告は必要ないけれど、「五輪を批判しておいて」とか「スポーツが嫌いだっただけでしょ」とかいう意見を見て、行く判断をしたことについて整理しておきたかった。チケットを買ったことは公言していたから。

ライブ中は密だとか言われていたけれど、実際には密だと感じた瞬間はなかった。アーティストに近い場所には距離を保つために立ち位置に印がされていた。そこにしか立ってはいけないという印。ライブ開始を待っているとき、立ち位置ではないところに割り込んで来た人がいた。周りが印の部分にしか立ってはいけないことを注意して、立ち退くように促し、その人は移動していった。

印のない場所でも、常に距離がとられていた。前へ前へと押されることももちろんない。声を出す人もいない。みんな手を上げて体を揺らすけれど、一度立ったその場からは動かない。私が見たアーティストがたまたまそうだったのかわからないけれど、人と距離が近いと思うことはなかった。もちろん前も後ろも同じ。YouTubeの配信で見ると観客同士が近く見えたけれど、カメラのせいなのか、角度のせいなのか、その時は本当に近かったのか、それはわからない。

行くべきか行かないべきか迷っていたとき、私の中で考えていたのはこんな感じのことだった。

  • コロナを気にしない人だと思われそうだから
  • 常識がないと思われそうだから
  • 五輪を批判していたくせにと思われそうだから
  • 新潟の人にどう思われるか怖いから

要するに自分の体裁でしか考えていなかった。私の中で「感染拡大につながるから」という理由はなかった。モデルナ製のワクチンを2回打って2週間経過していたけれど、打ってるから絶対大丈夫っしょ!とは思っていなかった。だから、もちろん自分がかかる可能性は考えていたけれど、もはや病院を頼れる状況ではないのでどちみち自分でなんとかしなきゃいけなくなると思っていた。かかった後に人に広げる可能性も考えた。ただ、一人暮らしだし仕事はリモートだし外食しないし直近で人と会うこともないし、可能性はあまり無いのではと思った。ここが意識の甘さの部分で、医療従事者の方にとってはかなりショックポイントだと思う。

次に、五輪を批判していた理由を考えた。

  • 国民の声を無視した強行だったから
  • 税金を使っていたから
  • 開催を納得させる説明がなかったから

ここにも五輪開催が「感染拡大につながるから」という理由はなかった。本当に怒っていたし、今も怒っているし、それでも私にはこの国しかないことを心の底から残念に思う。五輪に使うお金があるならまずコロナ対策に回すべきだというのは明白だったし、全ての声を無視していたことも明白だったと思う。国民を馬鹿にされていると思っていたし、思っている。だから批判していた。でも、フジが開催をやめたところで国のコロナ対策は変わらない。

フジに行ったことを正当化しようとしているわけではない。感染拡大につながるという軸で判断する限り、正当化はできないし、するべきではない。でも、五輪を批判したのであればフジも同時に批判しなければ整合性がとれないということはない。五輪反対派だけど、批判しているポイントがちがうから。…どうしても言い訳がましくなるの悔しいけど。

五輪もフジも同じように批判している人は本当に「感染拡大になったらどうするのか」という懸念をしている人だと思う。人を集めるイベントであるということは同じだから。自分の行動が感染拡大につながるという危機感がそこまでなかったことは自覚している。そこまで先まで考えて状況を受け止めていなかった。そこまで判断できていなかった。これに気づいたときには相当ショックだったけれど、実際私は日本全体がどうというより、自分が罹患するときのことしか考えていなかった。自分が罹患することと、日本全体のことが一致していなかったとも言える。

ネットで自分の意見を言えるようになって、「あなたはそっち派、私はこっち派」という区別を簡単につけられるようになったように思う。同じように、どっち派であるかを表明することで「正しく」そして「正義感」のある「潔白」な人間であることを示しやすくなった。

私のフジロックに行く行かないの逡巡は完全にここが根源だった。チケットを買っていたけどキャンセルしたということを報告すれば、自分はコロナについて「正しく」危機感をもっていて、「正義感」あふれる振る舞いをすることができるという「潔白」を示すことができたと思う。でも、キャンセルしようか迷っていたのはこの「潔白」を示したいという欲でしかなかったことは分かっていた。自分の好感度を上げようとするパフォーマンスにしかならないと思った。(パフォーマンスであっても結果的には行かない選択の方が正しいことはわかっていたけれど、どうしても腑に落ちなかった)

行かない選択をした場合、配信を見ることはフジを認めていることになるため、配信すら見ないことが正解になっていたと思う。行かない=人が集まるイベントに反対=応援してはいけない、になるから。五輪開催時、試合のハイライトを目に入れないことを徹底していた。批判するということはそれくらいの責任があると思い込んでしまっている。本当はここまでしなくていいと思うけどな…

というのも、正直、結局よくわかんないねってなることの方が多くて、そっち派とかこっち派とかに明確に立てる方が少ないと思うから。よくわかんないというのは、全く何も考えてないとき以外に、いろんなこと考慮した時にも出てくる言葉だと思う。意見をもたないことは許されないような、正しくなくちゃいけないような、そんな気がしているけれど、もやもやしながらフジの配信を見たりすることが間違っているとは全然思わない。むしろそれが自然だと思う。

これはフジロックについてどう捉えていたかという記事だけど、最近は何にでも意見を持たなくてはいけなくて、流行りのトピックについて話さなくてはいけなくて、わざわざ疲れたり怒ったりする情報に向かって行っているような気がしてならない。それは世間の風潮的にもそうだけど、私自身もそこに思いっきり陥っていると思う。波にまんまと乗せられて、こうやってブログを書いたりしてしまう。別に誰も求めてないのに、立場を表明したがっている。また自分の話をしている。黙っていることができない。だって誰にも聞かれてない、どう思いますかなんて。だからブログなんてやめちまえよ…と思ったりもするけど、読みたい人しか読んでいないと思うので、このままにしておく。でも、特にこの記事は関係のない人に見つけられることもあるだろうし、コメントで攻撃されることも想定している。正直めちゃくちゃ怖いなあ。

出演していたアーティストは、コロナについて触れる人もいれば触れない人もいたけど、今回ほどアーティスト、ミュージシャンがライブという仕事をしているのだと思ったことはなかった。何かを作る仕事をしている人は作品そのものだけでなくてそれが生まれる根源の美しさを期待されている気がするけれど、作品だけでなく作者の心も含めて評価されるのはむごいなと思う。語気の強い言い方になってしまうけれど、コロナについて、現在置かれている状況についてどんな意見をもっていようと、彼らはそのステージに立って彼らの音楽をやってくれればいいと思う。だから、自分の期待と違って、このフェスに出演したからといって彼らの音楽を嫌いになったりする必要はないと思う。というか、嫌いになるのは失礼だとも思う。彼らがどういう思想をもっているかと、音楽の良し悪しは全く関係がない。それは作者の人間性と作品を分けて捉えるべきだという考えに立脚している。その人自身がどうとか正直どうでもいいよな。…と、立場と潔白を証明したがる自分に言い聞かせている。

METAFIVEのライブ、ものすごくかっこよかった。

甘みの足し方

過去に対して厳しすぎる気がする、と考えていた。

小山田圭吾の話があった。その後の世間の反応にかなり落ち込んだ。どんな過去の物事も今につながっているとは思うけれど、今を過去だけで評価しているようで、更生を許さない世界につながっていく気がして怖いと思った。

小山田圭吾も人なんだけどな。彼の音楽が好きだから擁護したいと言う気持ちがないわけではないけれど、世界中からあんなに「間違っていた」と指摘されたら、自分のことを責めすぎて立ち直れない気がする。今の彼を評価している人はどれくらいいるんだろうか。

今は昔とは違うので許してください!って言ったとしても、なんでもかんでも許されるとは思わないけれど、みんなひとつも過ちが無いのか?と疑ってしまうほどに過去のことで攻撃されているのを見て悲しくなった。

もちろん過去の内容は最悪だった。あれが許されていた時代でなくなったことはよかったと思う。有名で影響力が強いから五輪降板というのも、それまでに謝らなかったことがだめだったこともわかる。だけど、あそこまで糾弾する必要があるんだろうか。過去を棚に上げていいとは思わないけれど、今どうであるかで判断できるようになりたいし、私は今の自分を自分として判断されたい。昔あんなこと言ってたよね、を永遠に掘り返されるなんて、辛すぎるよな、そんなの。(恋愛は相手に過去を評価されたとしても仕方ないとは思う。個人と個人の信頼の話なのでこれはまた別軸。)

たまたま見かけた記事に載っていた、ホームレスの人々を支援するつくろい東京ファンドという団体に寄付をした。無条件で個室の住まいを確保するハウジングファーストという支援をしているそう。

バイトで早朝に出勤するときに使っていた地下鉄の駅で、いつも同じ場所に同じホームレスの人がいた。その人は時々私の働いていた店に来ていた。店に来ると、実際には購入しないのに、コーヒー豆を選んでいるようにどういう特徴の豆かと店員に質問した。どの店員も購入しないことはわかっていたけれど、他の客と違う扱いをするわけにはいかないので、テイスティング用のドリップコーヒーを渡して、豆の説明をした。初めて店に来たときは路上生活をしているとは思わなかった。早朝に駅で見かけて、夏も冬も同じ服を着ていることに気づいて、初めてわかったことだった。

コーヒーなんて喉を潤すものじゃないし、水は公園で飲める。どうしてうちの店に何度も来ていたのかと考えると、昔からコーヒーが好きでよく飲んでいて、だからこそ時々どうしても飲みたくなるとかだったのかもしれないなと思う。この人に会う前から、いつか自分も家を失う可能性があるとは思っていたけれど、ホームレスの人に家を失う前の生活があったことはあまり考えたことがなかった。

家を失う可能性だけを考えるなら、貯金をしたりして自分のために備えればいいと思う。それでも寄付をしたのは、ハウジングファーストという取り組みがいいと思ったのもあるけど、記事内にあった

 「例えば路上生活になっている方がいて、その人が自己責任だったら、じゃあ助けなくていいのか、ということですよね。自己責任であろうがなかろうが、その人がどういう要因で路上生活になったとしても、やり直しができる社会のほうが、誰もが生きやすい社会ではないでしょうか」

という言葉に共感したから。自分がそうなったときは誰でもいいから助けてほしいと思うに決まっている。私もどんな理由で家を失うかわからない。信じてた人に裏切られてどうしようもないときに、信じたあなたが馬鹿だから助けませんとか言われたら無理だよ本当に。

自分も助けられたいからこそ、何かあっても救いのある世界になってほしい。長い目で見返りを求めているとも言える。ゆとりはあまり無いので決して金額は大きくないし、自分が生きる未来のための投資ではあるけれど、今困ってる人のためになればそれはそれで嬉しい。

自己責任で何かがあったとしても、やり直せる、どこかに救いのある世界であってほしい。そんなに甘くないよ、と言う人が大半だとしても、甘い方が私は好きだ。エゴだとしても、手の届く範囲で、ちょっとずつ甘みを足していきたい。