詩についてvol.N/A

こんにちは。

好きなスタバカスタマイズは、カモミールティーラテのシロップを蜂蜜に変更するやつですが、いつも全てを忘れてラテにエスプレッソ1ショットを追加したやつを頼んでしまいます。

また詩の話をします。まじでなにをやってるんだろうな〜と思いつつ書きたいときに書きたいことを書いています。形は詩に近いので詩と呼んでいます。ただ、私には言いたいことなんて何もないし、見せたい景色だって何もないので、本当に言葉で遊んでいるだけですが、一応なんか知らない気分になれるものを目指しています。詩は読んだときに感じた何かそのものが詩(ちゃんと言葉にできないもの)だと思うので、それを生むか否かが詩であるか否かを分けるのだろうだと思っています。絵でも音楽でも映画でも景色でもそういうのを生むものは結局全部詩ではないかと思います。ポエジーの意味はよくわかりません。

詩とは何かと問われて「これです!」なんて一生言えない。20年そこらしか生きてないくせに千年の歴史がある詩を語るなんて恐れ多いし、できるわけないけど、今のところこんな感じかなと思っています。

詩とは何か永遠に知ることはないと思うので、一生批判もできません。屹立する山をただ眺めるような気持ちです。屹立という言葉は最近知ったばっかりでかっこよくて使いたかったので使いましたが、難しい言葉を使うのはできるだけ避けたいです。ついでにそういう言葉を使った難しい詩も苦手です。読む人に知識を要する詩はあまり好みではありません。

読む人に知識を要する詩はそれだけで「この言葉の意味がわかる人以外はお断り」のような敷居を感じてしまいます。自分が物知りでないために僻んでいるわけではありません(いや、そうかもしれない)。 詩はもっと開かれたものであってほしいと勝手に願っているからです。誰にでも開かれている教会のように。昔、読み書きができる人は一部しかいませんでした。今でもそういう国はあると思いますが、現代日本は識字率が高く誰もが書き言葉でコミュニケーションをとれます。であれば、わざわざ読める人を絞ってしまうのはもったいなくね?とも思います。あとは単純に読んでいるときに詩の流れを止めたくない。わからないところを読み飛ばしてほしくもないし、わからないからって辞書も引かせたくない。わかる言葉で書きたい。例えば、

本作は、彫心鏤骨とまでは言わないが大変に苦吟した。苦吟したからといって出色の作になるわけではない。良否を問えば悪くはないが、瀟洒と呼ぶにはほど遠い。私の趣味の詩はナンセンスで諧謔的なものだ。ナンセンス趣味なんて、詩人の能事とはと考えざるを得ないのだが。とはいえ、宇宙の寂寥を感じさせるような広狭のある詩には憧れる。

なんて。難しい言葉を無理に使いました。これはひどいけれど、こんな風にモヤがかかって、感じとれるものが曖昧になる。よくない。なんやねん寂寥て。かっこつけてんちゃうぞ!って思いますね。寂寥という言葉には、それにしか言い表せない含みがありますが、寂寥を知らない人は何も感じられないことになります。

この詩はめちゃくちゃ大変だったわけではないけれども作るのには苦労した。苦労したからって最高の出来になるわけではない。どっちかといえば悪くないけれども、垢抜けていてクールかと言うとそんなことはない。私の好きな詩は無意味で少し笑いどころがあるようなユーモラスなものだ。無意味なものが好きなんて、詩人の役割とは何か考えてしまうけど。とはいえ、宇宙の悲しい寂しさなんかを感じさせるような幅のある詩には憧れる。

みたいなふうに書きたいわけです。めちゃくちゃって言葉は身近で大好き。最近知った難しい言葉ばっかりでブログ書こっかな〜って考えてたのですが、読み手が減るよと言われました。要はそういうことです。かっこいいモデルみたいな詩ではなく近所の兄ちゃんみたいな詩を目指したいし、もっと言えば自分が知らないいろんな音楽を教えてくれる兄ちゃんな詩を書きたい。何を言っているのかわからなくなってきましたがそろそろ潮時ですか?

熱めで頼みたいのに、全てを忘れてショット追加までしか言えないので、スタバレジ前忘却病にでもかかっていると思います。

自己紹介は名乗れば十分

こんにちは。

この間百均を退職しました。最後の出勤日は、すみっこぐらしの折り紙を欲しがる子供に向かって「すみっこじゃなくてまんなかで暮らせ!」と言っていたおじいちゃんが印象的でした。そういうことちゃうねん。

日本にも出てきたClubhouseって音声チャットのサービスあるじゃないですか。招待をもらったので私もちょっと前に始めてみました。ただ、最初に出てくる「興味がある人をフォローしてみましょう!」みたいな画面で、プロフィールに「〜の専門家」「〜コンサルタント」「〜ディレクター」みたいな肩書きがしっかりある人ばっかりでびびってしばらく開けなくなってしまいました。たぶんそんなのユーザの内の一部なんだけど、「そういう人しかお呼びじゃない(ように見える)世界」が目の前に広がって、ショッキングでした。だって、私には何もないって思っちゃったから。

もう私が何者と呼べるかについてなんて頓着してないつもりだったけど、いざそういう必要性が出てくると急に焦ってしまった。何かの専門にならなくちゃ、何かを継続しなきゃ、何者かにならなくちゃ。そんな呪いから抜け出せていないことに、自分でかなりがっかりした。やってることだけでは人を説明できないって信じてるつもりだった。

カナダにいた頃は「日本人」ってだけでOKだったんだけど、それもなんだか変な話だな。

私の場合、好きなものや気になるものがその時その時でコロコロ変わるので、全てにあまり詳しくない。知識の多さで好き度を測るのはよくないという話があるけれど、知識が少ない人ほどそれを気にしている傾向って無くもないと思う。

slow porkという知りたての単語を使いたかった覚え

これは去年。ポートフォリオ用に詩集の写真を撮ったから、インスタにあげようとしてたんだと思う。このメモによれば、私はなんのスペシャリストでもないけど、興味に従ってなんでもできる、らしい。最近のシフォンケーキブームを考えれば間違ってないかもしれない。2020年だけでも、急にArduino買ってLチカ(LEDライトをチカチカと点灯させるプログラミング遊び)を始めたり、テキストを買って中学数学を復習し始めたり、図書館に通ってまで本を読みまくったり、第二次世界大戦の映画ばっかり観たり、ポケモンの勉強しようとしたり、そんなことがあった。

全部一時的なブームで終了しているので、付け焼き刃的な知識しかない。ただ、そのおかげで軽く話せることはかなり増えたのかもしれないし、そのおかげでいろんな人と話す切り口をちょっとずつ持てたのかもしれない。スペシャリストじゃないけど、人権は欲しい。というかそもそも、自分の勝手な呪いで勝手に人権剥奪してるだけなんだけど。そういう自己暗示、頑張ってちょっとずつ解いていきたい。

ちなみに、百均に入って、ものがぎっしり並んでいる棚に、新しい商品を出せるスペースを捻出するという技術を得ました。というか、コンビニ時代からあった技術に磨きがかかった。これはスペシャリストとして誇れるんだけど、家がゴミ屋敷になったときくらいにしか活かせない気がする。残念すぎ。