抱負はいつ書いてもいい

こんにちは。気づいたら1月も終わりに近づいてきましたね。みなさんはいかがお過ごしでしょうか。

周りの友人からプロポーズされたとか同棲始めたとかそういう報告を聞くことが増えた。今まで結婚したいと思ったことはあんまり多くないけど、みんなの幸せそうな姿を見ると素直にいいなあと思う。とは言え自分がどうしたいからってどうこうなることでもないから、気にしないようにしたい。選択は人それぞれだよってね。

最近、将来についてどう考えてるかよく聞かれる。正直、やりたいことが特に無い。つい3年前、5年前くらいまではやりたいことばっかりだったけど。海外に住む、オーロラ見る、英語で話せるようになる、フリーターになってふらふらする、就職する…みたいなことを早々に叶えてしまって、よくわからなくなってしまった。そりゃあ詩集出したり太極拳始めたりサグラダファミリア見たりもしたいけど、もっと人生が揺らぐような新しいことをしたい、しなきゃいけない気がしている。これは同じ場所に居続けることで得られる安定を捨てたいっていう感情でもあってわりと危険だとも思うし、継続するのが苦手すぎるから、今後何かを成し遂げることもないと思う。海外のいろんな場所を転々とし続けたら満足できるのかな。わからない。

今年の4月で28歳になる。30歳で人生が終了するっていう予定を小学生の頃からなんとなく信じ続けてきて、だからこそ人生を猛スピードで進めてやりたいこと全部やる選択をしてきた。ありがたいことに選択できる環境もあった。でも、人生は終わらせるものじゃなくて続けるものなんだってことがやっとじんわりわかってきて、それと同時に続ける努力が必要なんだ、生きる推進力になる何かが必要なんだって気づいてしまって、正直ものすごくきつい。もしかしたら他人に対する見栄を張りたいだけのものなのかもしれないけど、他人からおもしろい奴だってちょっとでも思われてないと生きるのが難しいこともわかってる。それが自分の自信になって返ってくるから。誰のための人生かわからないけど、私の人生自体が誰かのためのコンテンツになればそれでいいのかもしれない。

変な人生にしたい、変な奴になりたい、人生通して「知り合いにこんな奴がいてね笑」って笑われるくらいがちょうどいい。順調にいけば、あと50年ちょっとくらいは生きるんだし、どうせなら太く。

ということで、今年の抱負は生きることです。よろしくお願いします。

宇多田ヒカルは最強

こんにちは。

なんだか知らない間に年が明けて、なんだか知らない間に1月も後半になっていました。みなさんいかがお過ごしでしょうか。宇多田ヒカルの新しいアルバム聴いてますが、やっぱいいですね。今、至極あたりまえのことを言っています。

今回は人が死んだ話を書くので、苦手な方はお読みにならない方がいいと思います。

 

 

 

 

 

  • おばあちゃんが亡くなった

年明け、おばあちゃんが亡くなりました。数えで96になる年でした。老衰は一番苦しまないと聞きましたが、最後に会ったときはごはんも水もとれない状態で、もちろん話せない。息をするのも苦しそうに見えました。本当のところは苦しかったのかなんてわからないけれど。

高校生の頃におじいちゃんが亡くなって、そのときは遺体が別人に見えて怖くて仕方なくて触れることができなかったのですが、おばあちゃんには触れられました。この年になって、死んだ人の体の冷たさというのを初めて知って、とてもびっくりしました。血ってそんなにあったかいんだ、生きてるって本当にどうにもできないくらいすごいことをやってるんだと思いました。死んだ後ってそこにいるのにいないみたいに感じちゃうから、魂の存在を考えちゃうのもわかるなあ。寝てるみたい、とはいうけれど、寝てるのとは絶対的にちがって見える。

棺におじいちゃんを入れるとき。
葬儀屋さんがすんごーく手際よく準備をしてくれた。
というか、手際よく仕事してた。
 
人が死ぬと途端にモノになるあの感じ、私はすごく苦手だ。
みんなよく準備を眺めてられるなあと思う。
あれ、無理だ。
 
骨をつつくのはもっと無理だ。
明日は、というか今日はお葬式だから、それがある。
おじいちゃんが人から死体になって、モノになって、ただの骨と灰になる。
 
今日、おじいちゃんの遺体を少しだけ見た。
粘土みたいな作り物みたいに見えた。
この窪んだ目が動いて私を見ていたんだ。
この口が私に話しかけていたんだ。
この頭に入っている脳ミソが、88年間動いていたんだ。
信じられなかった。
人の死なんて、そんなもんだ。
 
おじいちゃんの兄弟がじーっと葬儀屋さんが準備するのを見ていた。
歳が近い。
自分の死を想像しているのではと思った。
死を肌で感じ、それなりの覚悟をしているのだと思う。
今、どんな気分ですか?素直に質問してみたかった。
寿命で死ぬ、時の経過によって死を覚悟させられる。
そんなのは今の私には到底理解できない気持ちなのだけれど。
 
今日は通夜だった。
長いお経と、意味を知らない焼香。
自分が死ぬときは通夜も葬式もしてほしくないなとやっぱり思った。
弔うにはあまりに長い儀式だ。
それに、体系的すぎる。本当の弔いにはならない。
死んだからとりあえずお寺に連絡して、葬儀屋に連絡して、黒い服をきて、長いお経を睡魔に耐えながら乗り切るなんて、弔いになるものか。
集まってもらって、適当に話をしたらさっさと焼いて散骨してほしい。
お経も要らない。
というか宗教は要らない。私には特に要らない。
墓はつくりたいならつくってくれればいいなと思う。
思い出すための場所が必要なら。
お経を聞きながらそんなことを考えている間に、通夜は終わっていた。
こんな参列者がいるんだ。
やっぱり弔いになんかならない。
 
人は死ぬ、いつか絶対死ぬ。
いつか絶対に動かなくなる。
粘土でできた作り物の人形みたいになるんだ。
私が死んだら適当にやってほしい。
無理しないでほしい。
死人のためにそんなに頑張らないでほしい。
 
 
あの世なんてないと思っている。
 
おじいちゃんの心臓は、ただ、止まっただけだ。

これは高校生の頃に書いていたブログの引用。今読むと考え方が変わった部分もあるけど、否定はしたくないし、似たことを思う人がいたらわかるよって言いたい。

おばあちゃんやおじいちゃんが亡くなって、今までは悲しいよりも、遺体が怖いとか葬式なんて無意味だとかしか思えなかったのですが、今回初めて悲しいと思いました。悲しいというか寂しい。もう会えないんだ、もう話せないんだ、っていうのはこういうことなんだと思いました。おばあちゃんのつくる里芋の煮っ転がし、好きだったなあ。人の死を悲しむようになった、それは思い出すことが多いからであって、生きてきた時間が長くなった証なんだろうな。96歳、すごいな。私はいつまで生きていられるだろう。

  • スランプ

年末からなんとなくスランプで、詩は書けないし、本も読めない、映画も見られない、落ち込んでるわけじゃないけど何もやる気のない状態が続いていました。前回のブログはかろうじて更新できたけど、あれも事前に書いてたやつだったし…。やる気は自然に出るものではなくどうにかして出すものであることはわかってたけど、何もやりたくなくて、何もやれない、何もやらない自分を嫌いになっていく日々を送っていました。それが、素敵な映画を見せてもらう機会があって、なんとか自分を鼓舞することができました。自分だけだったら今回のスランプはすごく時間がかかりそうだった。

やる気は待ってても出ない。時間薬だけじゃどうにもならない。でも、自分からやる気を出そうと取り掛かるのはとても難しい。だからやる気が出ない状態は長引いてしまう。だけど、自分のことをどんどん嫌になってしまうから、どうにかしなくちゃいけない。今回は3週間で済んで本当によかった(数ヶ月かかることも多いので)。いつでもやる気ばりばりで何かをつくりまくっているわけではないです、本当に。笑

  • 年相応は幻想

今年27歳になるのですが、27ってもっと大人だと思っていました。…って毎年言ってるし、みんな同じこと言ってる気がする。今年60になる親でさえまだハタチとか言ってるし。ってことは、誰も年相応じゃないってことにならないかな。実は年相応な振る舞いとかどこにもなくて、私含めみんなが言う年相応は幻想でしかないのかもしれない。裏を返せば「この年になったのに〜」って思ってる状態が年相応なのかもしれない。

えー、もう20代あと3年しかないんだけど…と思ったのですが、まだ3年もあるんですよねえ。というか人生まだめっちゃあるんですよねえ。1年でけっこういろんなことできたなーと思ってるけど、これを何回も過ごせると思うとワクワクしますね。今のテンションだとワクワクなのですが、これがあと何年やらせる気だよ…ってなることもやっぱりあって、人生へのテンションを維持できるようになることも目標ですね。そんなことできるようになるのいつになるんだか…という感じですが。

宇多田ヒカルはいいですね。好きなものに触れるたび、生きててよかったと思ってます。真面目になっちゃった。まあたまにはいいでしょう。冗談なしも、わるくない。

ケーキ以外を撮らんかい

こんにちは。

不要不急の外出を控えなきゃいけなくなって、シフォンケーキを焼き続ける日々です。このあいだは紅茶のシフォンケーキを焼いてみました。今まで上白糖を使っていたけれど、グラニュー糖を使ったらメレンゲがつやっつやになってびっくりした。〜の代用ってよくあるけど、代用は完全な代用ではなく、ほぼOKになれるものでしかないということに気づいた。

シフォンケーキの材料を買うために買い物に出たりしてるけど、世間的には不要不急なことに当てはまるから、控えなきゃいけないのかなとびくびくしている。生きるために必要かどうかだけを指標にして生活するのってこんなにストレスになるんだな。

そういえば不要不急の対義語って何?って思って調べたら、必要火急って言葉が出てきた。ひつようかきゅうと読むらしい。

紅茶シフォンは空気の抜き方が甘くて穴があいたんだけど、インスタでは「穴が空いた」と書いた。もしかして穴って開くものなのか?と思って調べたら、

(1)陥没したり貫通したりして空間が生じるさま、穴ができるさま。「穴が空く」と表記する場合比較的多い。 

(2)欠員が生じたり予定取り消しになったりするさま。「穴が開く」と表記する場合比較的多い。「穴を開ける」ともいう。

「穴があく」で「開く」と「空く」のどちらの漢字使い正しいかについては諸説あり定かでない空間側面着目している場合には「穴が空く」と書き、より抽象的意味合いもしくは「開いた結果が穴のようになった」という点に着目している場合には「穴が開く」と書く、などのように解釈する余地はある。(中略)あるいは、大和言葉としての「あく」には元々漢字の「空」「開」双方意味合いが含まれており、どちらが正しくてどちらが誤りという類のものではないとする見解もある。この見方に従えば、ひらがなで「穴があく」のように表記しておくのが妥当ということにもなる。 → 出典

穴は空いてもいいらしい。ひらがなって便利だなあ。そういえば、小学生の頃、本や新聞で漢字に直せる字があるのにひらがなで書かれていることが気に食わなくて、自分の作文ではやたらと漢字を使っていた。〜の様に、とか、〜な事、とか。ひらがなが好まれるのは慣習なんですかね。ていうか、「あける」の漢字ってここ一年で検索された回数最多なんじゃない?間隔とか、距離とかさ。知らんけど。

紅茶シフォンと、偽物にしか見えないホイップクリーム。

母親に、頂き物の干柿をパウンドケーキにしてほしいとのリクエストがあったので焼いた。干し柿のパッケージに書いてたけど、鏡餅の上に載せて飾る用らしい。

干し柿というものに馴染みがなさすぎる

パウンドケーキは不味かった。そもそも干し柿の味が悪かったのもあるけど、パウンドケーキの生地もよくなかった。柿に合わせてグラニュー糖じゃなくて三温糖つかったり、蜂蜜入れたりしてみたけど、バターをよく練ってなかったみたい。ちょっとシフォンケーキが上手くなってきて、パウンドケーキだからって舐めてた。シフォンケーキの初回で舐めてはいけないと学んだはずでは?とも思うけど、お菓子づくりはわかりやすく失敗するからおもしろい。

のちに母に柿がカビていたと告げられた。不味いに決まってるだろ。

ベターではなくベストを目指してみる楽しさを最近やっと覚えつつある。昔から、ピアノ、デザイン、料理、何にしてもある程度できれば満足してしまっていたので、完璧にしたい!と思ったことがなかった。だから、どれをとってもそこそこ以上の能力がない。面倒がって基礎を疎かにしてきたからというのあるし、幸運にも、ちょっとやればそれなりの結果が出せてきたからというのもある。それなり以上にはいけないんだけど。

まあこんなもんでいいでしょ!っていう妥協が大事なときもあるけど、初めから妥協点をゴールにしているとそれ以上になることはないのかもなと、最近思う。もっとよくできるなーと思いながらやると、自分が予想していたよりもいいものができたりするし、何をやっても楽しくなる。もしかしたら今までは自分に対する期待値が低かっただけなのかもしれない。

今度はマーブル生地のシフォンケーキにチャレンジしたいし、タルトタタンもつくりたい。不要不急のものが無いと生活が楽しくないのは、必要最低限の業務連絡みたいな会話が面白くないのと似ている。必要かどうかで測れるほど重要な人生は送っていないけど、だからって卑屈になるのはつまんないよな。気抜いていこうな〜。

ウィークエンドシトロン 焼き途中に思い出してベーキングパウダー入れましたVer.