太極拳マスターに俺はなる

こんにちは。今日はお正月にあったイベントの代休でお休みです。みなさんお元気でしょうか。

しばらく書いていなかったので、近況を箇条書きにするやつをやりたいと思います。

  • もう何週間か前の話だけど、スラムダンクの映画を見た。おもしろすぎてびっくりした!!!!とにかく構成が上手すぎるし、漫画未読だったけどめちゃくちゃ泣いた。次はこうなるんだろうな…という予想を全く裏切らない。とはいえ予想がつくからつまらないということはなくて、期待させた分以上を熱量ある映像で返してくる。120分超えだしダレてもよさそうなのに、全くダレず、ずっと緊張感が張り詰めてる。すごかった。漫画を先輩に借りっぱなしにしているので読まなきゃ。

  • 太極拳を始めた。2,3年くらい前にブルース・リーにハマってから、ずっと習いたかった中国拳法。最高におもしろい!!!!あんなゆっくりした動きなのに、ゆっくりしてるから?めちゃくちゃしんどいし、姿勢や手足の角度、体重のかけ方とか、気をつけなきゃいけないところが多くてなかなか難しい。けど、難しい分やりがいがあって、極めがいがある。
  • 私が習っている正宗太極拳という太極拳は、全部で99の型があって、それを全部覚えて試験をパスすると初段になれるらしい。早く社内Slackのプロフィールに「太極拳初段」って書きたい。99の型の中に攻防の動きが盛り込まれていて、あの体操みたいな動き一つひとつが攻撃と防御の技になっていると教えてもらった。このあいだ、先生に「異種格闘技とかできるんですか」って質問したら、「うちの太極拳は反則技ばっかりだからできないですよ笑 ただ…めちゃくちゃ強いです(`・ω・´)」と言われた。会社で格闘技やってる人と戦いたかった。
  • おもしろすぎて毎週の練習が本当に待ち遠しい。今まで習い事はピアノ、水泳、和太鼓くらいしかやったことなかったけど、大人になって自らやる習い事は最高。先生は50歳くらい(に見える)だけど、太極拳歴は30年くらいって言ってたし、私も今から十分極められるなと思う。何を目指してるのかわからなくなってきたし、太極拳について話したすぎて箇条書きひとつに収まらなかった。

  • 詩から離れている。詩を読んでもないし、書いてもない。書けないって言ってるけど、書いてないだけだと思う。書いてないと書けないし、読んでもないから引き出しもなくなる。そういうもんだと思う。今はスランプっていうよりは、ただ詩への興味が薄れている。こんなに詩から距離をとるのは久しぶりで、詩のことを考える頻度もめちゃくちゃ減った。実際に手を動かして書いてなくても、詩のことを考えていれば書いているのと同義だと思うんだけど、そういう意味でも何もしていない。でも、詩は私のベースだし、また興味が出てくればそのときやればいいと思う。一人でぼちぼちやっていくのが合ってそうだなあ。

  • 友人の結婚式に行った。新郎新婦二人とも大学の友人で、とても大事な人たち。泣く心づもりだったけど、二人がずっと笑っていて、こっちもつられて笑顔になってしまうような空気があった。演出も一つひとつ心配りされていて素敵だったけど、二人じゃないとあんな雰囲気にはならなかったと思う。二人の人柄が滲み出る、本当にいい式だった。久しぶりにいろんな人に会えたのも嬉しかったし、また会う約束もして、つながり直すことができたのもよかった。結婚、本当におめでとう。

  • 桜が咲いている。会社の裏に桜坂と呼ばれる坂があって、道沿い両側に桜がたくさん咲いている。去年の今頃はちょうど休職していて、そこにそんなたくさんの桜が植っていることすら知らなかった。いろんなところで桜を見ながら、元気に過ごせていることが嬉しいなと思ったりする。薬は飲んでるけど、飲みながらでも元気でいられるならそれでいい。最初は風邪薬みたいな治すための薬だと思ってたけど、今は血圧を下げる薬とか、そういう無事に過ごすための薬と同じだと思っているので、飲んでるからって自分の弱さを責めたりすることもなくなった。ジェットコースターだった感情がゆるやかになったことで楽になったし、生きるのが楽しいと思えること、楽しいって素直に言えることが嬉しくて仕方ない。元気が一番だよな、本当に。

なんとなくお腹の調子がわるいなと思ったら、さっき飲んだ牛乳の賞味期限が2日切れてた。たった2日で?乳製品はだめか。

明日もお休みですが、太極拳の動画を繰り返し見て終わる気がします。それでは。

卒展終了の巻

卒展が終わりました。

卒業制作としてつくったのは『するりんわーどしゃわー』という作品でした。シャワー型の映像インスタレーションです。

シャワールームを模したブースの中で、実際に言葉をシャワーとして浴びる体験ができます。シャワーから流れてくる言葉は「するりんわーど」。これは、「かわいいね」「ありがとう」「好きだよ」…お世辞だと感じてしまったり、本当に思ってるのかなと疑ってしまったり、いろいろな理由で受け取れない言葉のことを指します。造語です。

普段受け取られなかった言葉はシャワーの水のように流れてしまっている。だけど、受け流さなければ自分の糧になる言葉かもしれない…と少しでも思ってもらえないかな、なんて。

今までの作品は、自分には分からないと言われたり、共感できないと言われたり。作品の外っつらばかりを褒められたり。なかなか中身のところまで突っ込んでもらえないのが悩みでした。鑑賞者が置いていかれてしまうような独りよがりな作品になってしまっていたからです。

だからこそ、今回は「見てもらうなら見てもらうための作品をつくる」ということを私の中での作品づくりの指針にしていました。この作品、本当は別のテーマで作り始めました。だけど、人のための作品にするため、かなり普遍的なこと(普段受け取れない言葉を見つめ直す)をテーマに変更しました。おかげで怖いくらい共感してもらいましたが、怖いくらい反論がありませんでした。

共感は狙ってやったことなので、狙い通りにいったことは成功です。ただ、自分の込めた意味がなんの滞りもなく、なんの隔たりもなく受け入れられることに違和感が半端なくありました。この作品は、特に私の込めた意味より他のことを読み取ることはできないし、ひとつひとつメタファーを読み取っていくと答えはそれだけです。自分の出した意見に対して、「わかる」「そうだね」ばっかり言われていると、なんだか自分が王様にでもなったような気分になってしまいました。跳ね返りがない。私がこの作品を放った意味がないような気がして。

私はずっと「無題」という題がついた作品全般が苦手でした。とりあえず「無題」と名付けて、あとの解釈は観客に委ねようという姿勢が気に食わなかったからです。無題とつければ格好がついてしまう。そんなの何をつくってもクールなアートになってしまう。例えなんの意味がなくとも、観客が必死に解釈を満載させて、観客が意味付けをしていくアートが出来上がってしまう。それは作者としての責任がとれていないような気がして。

だけど、今回の経験を経て、観客が意味付けできない作品はまったく力がないのではないかと思うようになりました。共感はしてもらえたけれど、わかるー!そうだよねー!からは何も生まれないので。いつも考えないようなことを考えたくなるようなものこそ、作るべきなんじゃないか??作品自体のもつメッセージを語りすぎると、鑑賞者はそれ以上自由に考えることができない。それならば、「無題」という題で意味を語りすぎることを防ぐ方法もあるかもしれません。

あと、これは卒展の話ですが、前まで同じサークルだった友人たちの作品が超よかった。アイデアが素敵で、偉い人にも評価されてて、子供にもウケてて、ただひたすら超絶まじばちくそに悔しかったです。実際ぜんぶ好きだったので、見に来てくれた身内に勧めまくってました。悔しすぎて自分の作品破壊したかったです。

それから、他に、自分のやりたい表現と見る人にテーマをすり合わせつつ見せることを両立していた作品がありました。勝つとか負けるとかそういう次元にも並べず、悔しいとかいう気持ちにもなれず。悔しいって思えないレベル。それが悔しい。作品全体を通して作品へのまっすぐさ、真剣さが溢れていて、私の作り方の甘さ、ぬるさを思い知らされました。見ていてしんどかった。

人に見せるためとか言いながら中途半端な作品をつくってしまった。そして、中途半端にしてしまい、作品に申し訳ない。

愛せる形にどんどんアップデートしていきたいです。卒展は始まりでしかない。

今年は卒業後、社会的な肩書きで言うと無職になる予定です。笑 トロントに1年弱、ワーキングホリデービザで住みます。先のことはまったく決まっていませんが、飛行機はとってしまったので、とりあえず4月13日に日本を発ちます。学校も終わって、友人も家族もいない場所で、自分で切り開く力をつけに。あとは、英語を作品に使いたいという理由です。

卒展でどちゃどちゃに悔しがって夜に目を腫らすくらい泣いたのは私くらいかなと思うので、悔しいと思えたことを誇りに頑張ります。笑

動画は卒展アップデート前のものですが、よければご覧ください。