詩の神と交信したい

やばいタイトルだ。いくところまでいった感がありますが、いたって正常です。みなさんいかがお過ごしでしょうか。

スランプ気味ですが、飽きずに毎日詩のことばかり考えています。で、いろいろ考えた結果、「予定された言葉を書きたい」「あらかじめ決められた言葉をおろしたい」「詩の神の使いになりたい」となってきたので、考えをまとめるために書きます。ブログはTwitterとかと違って読む人が限りなく少ないので自由にやります。やっていきます。これからも。

ここ最近は「予定された(ここに書かれるべき)言葉をその通りにおろす(書く)ことで、究極の詩を目指したい」と考えています。究極な詩の形というものはあらかじめ用意されていて、それを完璧に模倣することで「詩というもの」に近づける、詩とは何かを求めることができるのではないかということです。

意味を完全に剥奪された詩、それがすなわち詩の真の姿であり、純粋な詩と言える

今まではこんな理念のもと、詩の意味の剥奪をやってきました。それが前々回のブログでも書いた詩集での挑戦でした。そのために、完璧ではありませんがオートマティスム、つまり自動筆記(記述?書記?)や言葉の羅列のような手法をとって書いていました。しかし、意味のない詩を集めた詩集を一冊つくったのち、それは本当に純粋な詩と言えるのだろうか、という疑問がわいてきました。書かれた言葉に意味がないのであれば、存在意義すらなく、そもそも誕生させる理由がないのではないかと。何も手を加えず、何も生まれていない状態こそが詩なのではないかとまで考えるようになりました。

意味のない詩の典型的なやつです

それでも書くとなれば、意味のある詩、なんらかの意義があるものを生む必要がでてきます。ここで言う意味のある詩とは、メッセージ性があるものということではありません。「この作品のメッセージはなんですか」が愚問であるように、メッセージなるものを一言で「〜です」と言い換えられるような作品はおもしろくないと思うからです。ということで、わかりづらいのですが、「意味のある」とは存在意義があるということにしておこうと思います。

すでに存在しているものは、すべて存在意義があると言えると思います。逆説的ではありますが、無の状態について意義の論理を立てることはできないからです。

そこで、詩とは何かを求めていくとき、究極の詩というものはすでに存在しているものではないかと思うようになりました。私が作り上げるものではなく、探し出し模倣するものなのではないかと。

詩を真面目に書くようになってから気づいたこととしては、書きたいことは自分の中にないということと、平凡な自分の考えを書いても全くおもしろくないということがあります。書くべきことは自分の外にあるということはわかっていましたが、それを手探りで掴み取って言葉へ変換していくこと。それが詩を書くという仕事なのだと気づいたという感じです。少なくとも今はそう思っています。

まだまだ詩を書くということについては駆け出しですが、これからは、究極の詩というものが存在するということを念頭に、それを追い求める作業、書くということをやっていきたいと思っています。詩人とは、詩の神がつくった究極の詩に書かれた言葉をおろす、いわば「詩使」のような感じなのかもしれません。…やばい感じになってきましたが、全く正常です。

詩への考え方がコロコロ変わっていて、自分でもなかなか追いつけないのですが、それに伴ってまた作風が変わる気配を感じています。最後に最近書いた詩を載せて、終わりたいと思います。

やばいタイトルのブログを最後まで読んでいただきありがとうございました!

一番最近書いた詩、これはゴダールの『気狂いピエロ』から着想を得たもの

バドワイザーは瓶一択

こんにちは。

部屋が寒いです。おかしい。まだ10月半ばじゃん…って思ったけどもう10月半ばも過ぎてました。ついこないだまで暑かったから色々と勘違いしてしまっていたようです。でもビールはまだ美味しいですね、というかずっとおいしいですね。バドワイザーが1番好きです。苦さがマイルドで好み。

先日、詩の朗読というものに参加してみました。詩人扱いされて超絶照れ臭かった。私はまだ詩人なんかじゃないので、ただちょっと詩を書くのが好きなだけなんだよ…と思ってしまった。実際、自己紹介を求められても「詩を書くことが好きです」としか言えなかったです。笑

詩のことを真剣に考え始めて、というか、詩として書こうと思ってからまだ2年くらいしか経っていないけど、最近はそれが楽しくて仕方ないです。詩の講座に通い始めたのも今年のことで、筆名を変えたのも今年のことで、なんとなく自分の癖がわかり始めたのも今年のことです。そういえば全部半年以内の話か。

外に出したら意外と褒めてもらえたりして嬉しい。朗読も初めてのことだったけど、見てくれた人には褒めてもらった。嬉しい。ちなみに自分の朗読の録画は死ぬほど恥ずかしくて見られてない。たぶんこの先も見ない。

詩なんてキモいし、詩なんて独りよがりだし、詩なんてよくわかんないしまじで嫌いだったのですが、真剣にやればやるほど面白くて、好きになってきているなと感じます。詩を嫌う感情も面白いので、嫌いなままでいたいとも思っているのですが、嫌よ嫌よも…と言う通り、やっぱり魅力を感じてしまう。

わからなくて嫌いだった詩は、意味以外にも味わうところがあるなと実感できたのは最近のことです。もし今も詩に意味しか求めてなかったとしたら、自分が書いたのとほとんど同じ意味を持たせている詩に出会った途端、何も書けなくなっていた可能性もあるなと思います。もし書かれている意味だけを詩に求めているとすれば、私が下手に言い直す必要なんてないわけで、やめてしまっても構わない。でも、同じ意味であっても言葉を使った意味の磨き方は全然ちがうし、言葉による研磨力を高めることが詩を書く面白さでもある。

物事を見る目の鋭さや深さというのはすごい詩人のすごいところだけど、その目で見たものをいかに言葉で描くことができるかというのもすごい詩人のすごい理由だと思う。というかそれが詩人か。自分の目だけを期待していても、同じ目をもつ人に出会ったときに耐えられないと思うし、そこだけに期待するのはやはり違う。

そもそも、自分が考えていることのほとんどは他の人も考えているというのは当たり前なので、自分の考えがオンリーワンだとは全く思わない。…解散してしまった国民的アイドルのあの曲を否定しているわけではない。笑

だからこそ「表現」と言われるように「表現」力を磨かないといけないし、他の人とちがう「表現」をしなくてはいけないし、他の人の「表現」を勉強しなくてはいけない。

これは他の芸術(作られるもの全てを指したい)にも言えることだと思うし、詩もそこに含まれるというだけで、この話だって別に珍しい話ではない。私は最近やっと実感をもって気づくことができたよという報告にすぎない…。

芸術やらなんやらに触れる方の面白さもここにあって、意味がわからなくてもわからなさに触れられることが面白いのだと思う。わからなくていいし、わかりきったことを確かめても何もならない。ぬるい安心しかそこにはない。そういう普段の生活で感じられない危険さ?というか怖さを与えられるようなものをつくりたいなあ。いつも同じことを言っている気がする。

ありがたいことに詩に年齢は関係ない。肉体の衰えも、そこまで関係ない。もっとやれる余地がある。とか言って最近なんか調子のってていい感じだけど、そのうちまたもう無理だ書けねー!ってなる。どうせその繰り返しだ。

詩なんて流行らないし、別にイカす趣味でもないけれど、なんとなくやめられなくてなんだかんだやっている。言葉は誰でも使えるからこそ、もっともっと面白い使い方をしたい。諦めが悪いことは才能って言ってもいいかもねと友人と話したりしていました。これが才能なら、この才能だけは信じていたい。やめなかった者勝ちでしょ、たぶん。

バドワイザーがしんどくなっても、ホットコーヒーは美味しくなる。寒いのもまあ悪くないか。