詩が意味不明すぎて大嫌いだった話

こんにちは。また詩の話です。詩のことばっかり書いてたら、最近めっきりサイト訪問数が減ってしまいました。別にいいけどね、別に…。

今「詩が」「詩が」ってうるさいですが、もともと私は詩が大嫌いだし超苦手でした。詩を嫌いだった理由を100個くらい挙げるなら、

  • 意味がわからないから
  • 意味がわからないから
  • 意味がわからないから
  • 何を楽しめばいいのかわからないから
  • 意味がわからないから

etc…

ざっと挙げるとこんな感じでした。詩って言葉なのに意味不明なことが多いんですよね。物語とかが書かれてるわけでもないし、まじで作者だけがわかる言葉で楽しんで、自慰してるだけじゃん…キモ😩ってよく思ってました。とか、なんか無責任な感じも嫌でした。意味わかんないのに意味ありげに佇んでるのもキモいなと思ってました。「意味わかんないでしょ?でも何かを感じてください」みたいな。感じてくださいじゃねえよ!!意味わからせようとしてないくせに無責任だろ!とよくキレていました。その頃は同じような理由で現代美術も嫌いでした。詩人もアーティストもみんなキモいと思ってました。それが去年の春先くらいまで続いていました。

そんなときでも私は詩を書いていました。自分がキモいと思っている詩を自動的に生み出してしまうことが嫌で嫌でしょうがない。でも書くものが詩って呼ばれてしまうからには詩を勉強しなくちゃいけない。そんな思いで嫌々詩を読む日々でしたが、意味がわからないといけないということが幻想だということに気づいた経験がありました。

「なんでもおまんこ」との出会い

みんな一度は読んだことがあるであろう谷川俊太郎。そんな谷川俊太郎の『夜のミッキー・マウス』という詩集を読んだときにめちゃくちゃ面白い詩に出会いました。「なんでもおまんこ」っていう詩なんですけど。全文はここに載っています。

衝撃でした。タイトルからして衝撃なんですけど、正直「生きる」とか「朝のリレー」とかの要するに「なんか綺麗で優等生」な詩とは全然違う。意味はわかんないけど、意味とかどうでもよくなっちゃうくらい言葉が面白いと思ったんです。そうなんです、意味なんてわからなくてよかったんです…。「なんかよくわからんけどおもろい」が詩に対する態度としてアリなんだと思いました。余談ですが、締めの一言がやばい。これはゾクっとしますよ、ぜひ読んでみてください…。

最果タヒ展との出会い

詩を体感した出来事でした。最果タヒという詩人がいるんですが、その詩人が自身の詩をオブジェにしたり、鏡に載せたりしていろんな方法で展示している展示会をやっていました。

その中で、詩の断片が天井からたくさん吊り下げられているスペースがありました。鑑賞者は中を歩き回るんですが、みんな写真を撮ったり、「この言葉いいね!」って言ったり、どういうところが好きだとか話し合ったりして思い思いに楽しんでたんですね。そのとき思ったのが、詩篇が鑑賞者と出会って生まれる感情こそが詩なんだなということでした。この空間そのもののように詩の中に鑑賞者が入り込む。わからないものを押し付ける無責任とかじゃなくて、まだ完成してなかったんですね。詩は詩だけでは成り立たなくて、鑑賞者がいて初めて詩は生まれるということです。他のアートもそうなのかもしれませんが。

そんなこんなで詩に向き合うようになって、よりいろんな詩を読むようになりました。

意味なんかどうでもいい

詩は意味わからない分、わからなさすぎて変な脳が鍛えられて読めば読むほど癖になります。クセのあるラム肉みたいな感じかもしれない。世の中にはいろんな音楽・映画・小説があるように、いろんな詩があります。読んで「わかんないなー」という詩は好きじゃない、でいいと思います。さっきの谷川俊太郎の詩も、おもんないって思ったならそれで大丈夫です。そういう詩は好みじゃないっていうだけなので。詩も一篇全部読み切れなくても、一行なんとなく気になるところがあればそれでOK。物語性があんまりないので好きなとこパラパラ〜っと見て、読めそうだったら読めばいいんです。それでええんです。って土井先生も言ってました。

私は無理矢理でしたが、詩を読んで初めて詩に対するアレルギーがマシになりました。それは、いろんな詩を読んで、いろんな感じ方を自分の中で良しとできるようになったことと、これも詩でええんか!という詩にたくさん出会ったことが理由としてあります。みなさんも、あまり構えず、もともと意味不明なものなんだと思って詩を楽しんでくれたらなと思います。

絵画は絵の具で描きますが、詩は言葉で描く絵画のようなものなのだと思います。絵の具、つまり言葉そのもの、意味そのものは重要でなくて、全体をどう捉えるか。絵筆のタッチを見るように、言葉がどう使われているかを見たりとか。ね。

私の好きな詩人に吉増剛造という人がいますが、今詩集をめくったところに「グラマーな地下鉄の通過」とありました。これもまじで意味不明ですがなんかよくわからんけどかっこいいと思います。

では。

詩の入門書紹介

こんにちは。ずいぶん寒くなってきましたが、いかがお過ごしでしょうか。

今日はなんとなく有益ブログを目指して、詩の入門書について書いていきたいと思います。みなさん、詩って普段から読みますか?学校で習ったきり離れてしまった方も多くいるのではないでしょうか。詩はわからないけどなんとなく気になる人や、何を楽しんでいいかわからない人向けに、私が読んできた、詩について少しでも知れる本を紹介していきます。


1. 現代詩の鑑賞

詩の読解力をつけたい人・いろんな詩を読みたい人へ

一番オススメ。詩人の大岡信が具体的な詩を取り上げながら自身の解説を付した本です。この詩の「何がすごいのか」「どこがどう美しいのか」などを紹介してくれるので、詩の読解力がつく本と言えます。詩人ごとに1〜3篇がまとまっているので、詩を読んでみたいけど、何から読めばいいかわからない方にもいいと思います。好みの詩人を探す字引きのようにも使えます。注意すべきは、大岡信の読解が正しいと思い込まないこと。自分がいいと思った箇所が批判されていたり、逆に良くないと思った箇所が美しいとされていたりしても「ひとつの解釈にすぎない」ことを心に留めておいてください。

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2. 今を生きるための現代詩

現代詩が難しいと思っている人へ

詩とは系の本。内容については「本当にそうか?」となる部分が多くて、個人的には鵜呑みにしない方がいいと思いますが、「本当にそうか?」について一つひとつ考えていくことで、自分の中で詩とは何かを整理することができるようになります。あと、あくまで「現代詩」について書かれた本なので、古代からのすべての詩について当てはめることはしない方がいいかもしれないです。これも私の感想ではありますが…。

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3. 現代詩入門

詩のあり方が気になる人へ

詩人・大岡信と谷川俊太郎による詩についての対談本。詩が社会の変遷の中でどういう位置に置かれてきたか、どういう詩がいつ読まれてきたのかなどが載っています。詩の役割など、詩を読むことだけでなく、詩そのものについて深く考えたい人におすすめの本です。

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4. 詩ってなんだろう

詩を体感したい人へ

詩が詩で解説されている本。これも詩だよね、あれも詩だよね、を詩で体感させてくれます。これを読むと、詩のあり方はひとつではないということがわかります。「詩とは」と聞かれたときに一言で言えないのは、これだけの多様性があるからなんだなあと。詩が何かを知るには究極な本だと思います。字組もいいので、文庫版よりも単行本(って言っても薄いですが)の方がオススメです。

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番外編. 詩とは何か

詩人の頭の中を覗きたい人へ

こんなタイトルなのに詩とは何かについてこれを読んでも正直全く答えは得られません。が、詩人とは何かはわかる本です。詩人が何を考えて詩を書いているのか、何を燃料に詩を書いているのかが気になる人はぜひ読んでみてください。詩を書き始めたけどなんとなく自信がない人にもオススメです。私は迷ったらこの本を開いています。

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他にも紹介したい本はありますが、もっともオススメのものを選んでみました。気になった本があれば貸すので声をかけてください。詩の解説本は意外といっぱいあるのですが、どれも個人の感想にすぎないので、実際に読んで感じたことを大事にしてもらえたら嬉しいなと思います。誰?って感じですが。

少しは有益ブログに近づけたと思います。それでは。

詩の神と交信したい

やばいタイトルだ。いくところまでいった感がありますが、いたって正常です。みなさんいかがお過ごしでしょうか。

スランプ気味ですが、飽きずに毎日詩のことばかり考えています。で、いろいろ考えた結果、「予定された言葉を書きたい」「あらかじめ決められた言葉をおろしたい」「詩の神の使いになりたい」となってきたので、考えをまとめるために書きます。ブログはTwitterとかと違って読む人が限りなく少ないので自由にやります。やっていきます。これからも。

ここ最近は「予定された(ここに書かれるべき)言葉をその通りにおろす(書く)ことで、究極の詩を目指したい」と考えています。究極な詩の形というものはあらかじめ用意されていて、それを完璧に模倣することで「詩というもの」に近づける、詩とは何かを求めることができるのではないかということです。

意味を完全に剥奪された詩、それがすなわち詩の真の姿であり、純粋な詩と言える

今まではこんな理念のもと、詩の意味の剥奪をやってきました。それが前々回のブログでも書いた詩集での挑戦でした。そのために、完璧ではありませんがオートマティスム、つまり自動筆記(記述?書記?)や言葉の羅列のような手法をとって書いていました。しかし、意味のない詩を集めた詩集を一冊つくったのち、それは本当に純粋な詩と言えるのだろうか、という疑問がわいてきました。書かれた言葉に意味がないのであれば、存在意義すらなく、そもそも誕生させる理由がないのではないかと。何も手を加えず、何も生まれていない状態こそが詩なのではないかとまで考えるようになりました。

意味のない詩の典型的なやつです

それでも書くとなれば、意味のある詩、なんらかの意義があるものを生む必要がでてきます。ここで言う意味のある詩とは、メッセージ性があるものということではありません。「この作品のメッセージはなんですか」が愚問であるように、メッセージなるものを一言で「〜です」と言い換えられるような作品はおもしろくないと思うからです。ということで、わかりづらいのですが、「意味のある」とは存在意義があるということにしておこうと思います。

すでに存在しているものは、すべて存在意義があると言えると思います。逆説的ではありますが、無の状態について意義の論理を立てることはできないからです。

そこで、詩とは何かを求めていくとき、究極の詩というものはすでに存在しているものではないかと思うようになりました。私が作り上げるものではなく、探し出し模倣するものなのではないかと。

詩を真面目に書くようになってから気づいたこととしては、書きたいことは自分の中にないということと、平凡な自分の考えを書いても全くおもしろくないということがあります。書くべきことは自分の外にあるということはわかっていましたが、それを手探りで掴み取って言葉へ変換していくこと。それが詩を書くという仕事なのだと気づいたという感じです。少なくとも今はそう思っています。

まだまだ詩を書くということについては駆け出しですが、これからは、究極の詩というものが存在するということを念頭に、それを追い求める作業、書くということをやっていきたいと思っています。詩人とは、詩の神がつくった究極の詩に書かれた言葉をおろす、いわば「詩使」のような感じなのかもしれません。…やばい感じになってきましたが、全く正常です。

詩への考え方がコロコロ変わっていて、自分でもなかなか追いつけないのですが、それに伴ってまた作風が変わる気配を感じています。最後に最近書いた詩を載せて、終わりたいと思います。

やばいタイトルのブログを最後まで読んでいただきありがとうございました!

一番最近書いた詩、これはゴダールの『気狂いピエロ』から着想を得たもの

詩が書けないならAe触ればいいじゃない!

こんにちは。

詩が書けないのでなぜか大学生ぶりにAfterEffectsを触って2Dアニメーションのチュートリアルをやったりしています。

みなさんはお元気ですか。

こんなのとか

詩が書けなくなって久しいです。詩集つくったりもしてたのですが、あのために書き下ろした詩は無いので、かれこれ2ヶ月近く何も書いてないと思います。書けなくなったのは詩を書くことが楽しくなくなっていることに気づいてしまったからです。雑誌に投稿するようになってからは締め切りがくるから嫌々書く、みたいになってきていて、昔みたいに自分のために書くことができなくなってしまっていました。できあがった詩そのものよりも書くための動機や書くプロセスの方が重要だったので、この状態はなんとも不健全というか、自分にとっては全く純粋な詩ではないというか。こんなことを考え始めて全く筆が進まなくなってしまいました。そもそも書きたい!と思うこと自体が全く無くなっていることにも気がついてしまい、悲しい気持ちです。まあ今までもスランプは何度もあったので、この先一切書かないなんてことはないとは思うのですが、詩を書いてない期間は自分が自分じゃないような気になってしまうのでつらいですね。何かつくってないと落ち着かない。

だからこんなのつくったりしてるわけです

このあいだ「いつも何してるの?」と聞かれて詰まってしまいました。映画見たり詩書いたりってよく答えてたのですが、最近はどちらもあんまりしていなくて、本当に何してるのかわからなくなってしまった。でもよく考えたらAppleMusicで音楽をディグってることがほとんどでした。日常の中で何かをしながらではなくて、音楽を聴くだけの時間っていうのがわりと発生しています。それは音楽が単純に好きだからなんですけど、この「好き」の度合いをやたらと気にしてしまっていたなと最近(今日!)気づきました。

2秒つくるのに40分とか平気でかかる

好きなことを仕事にしたい、好きなことに触れていたい。映画が好き、だけど監督はわからない。音楽も好き、だけどそんなに詳しくない。本が好き、だけどそんなに読まない。そんな感じで「だけど」と言って自分の好きを閉じ込めてしまっていました。でも、

好きなら好きって言えばいいのに。

って、なんか急に思いました。好きの程度なんて誰にもわからないし、誰にも測れない。好きなら詳しくなきゃいけないなんて幻想でしかなくて、知識がないことを恥じらう必要はどこにもないわけです。知らないことは調べればいいし、教えてもらえばいいだけ。好きなものはこれ!って言い切ってもいいわけです。

これからは胸張って好きなものは映画と音楽と本です!って言うぞ!

詩はそのうちまた。それでは。

詩集『Poolside Ensemble』について

こんにちは。

ブログ書いてないな〜と思ってたら約3ヶ月経っていました。みなさんお元気でしょうか。

最近詩集をつくりました。今回はそのことについて書いてみたいと思います。お買い上げいただいたみなさん本当にありがとうございます。まだ手に入れていないみなさん、ご興味があればぜひ一冊よろしくお願いします。

さて、詩集をつくろうと思った経緯としては、しっかりした製本の本を一冊つくりたいという思いが出発点でした。ただ、私の詩は短いので、一冊しっかりしたものをつくろうと思うと何十編もの詩が必要になります。しかも作風がコロコロ変わるので、何十もつくっていてはひとつの本としてまとまりがなくなってしまう懸念がありました。作風が変わらないうちにパッケージングしてしまおうということで今回は26ページ12編という形に収めました。

しっかりした製本のものは、今回のような10〜15編くらいの詩集を何冊かつくってから、ベスト版的につくろうかなと思っています。今回のものは、いうなればデビューアルバムかなと思っています。収録数も音楽アルバムっぽいし。アルバムごとなら作風が違っても問題ないかなと思ったりして。

詩集をお買い上げいただいた方にその場で読んでもらえることもあるのですが、そのときに「どういう気持ちで書いたのか」「どういう意味なのか」を問われることがあります。この問いに関して言えば、「何も考えてないし、何も意味はない」ということになります。

今回の詩集、『Poolside Ensemble』は、詩を意味からどこまで解放することができるかという実験を行っています。言葉を用いている以上、また、言葉と言葉につなぎ目がある以上、言葉から意味を切り離すことは不可能と言っても過言ではありません。詩はそういう言葉がもつ意味以上に主に比喩を使って意味を含ませることでその深遠を探る文学とも言えます(多くの芸術はそのようにつくられているのかもしれませんが、私にはわかりません)。興味があるのは、そういう風に書かれる詩を、意味から解き放つことで純粋な「詩とは何か」を求めることです。

この「詩とは何か」を求めるにあたって、作者が見えない詩にするというのもテーマに据えています。詩は自分の感情を込めて書くもの、自分の体験や思いなどをその人がもつ視点で書くものとされているような気がしますが(専門家ではないので曖昧な表現ですみません)、この作家性とも呼べる部分を全面的に排除するように心がけています。あらゆるものを取り去ってもなお詩は詩として成立するのであれば、純粋な詩とは何かに近づけるのではないか、そう考えています。性別や年齢が推測されないような筆名にしているのもそのためです。とはいえ、言葉選びというところに作家性が出てしまうので、完全排除はできないのかもしれません。本当は自分以外の知能に詩を書かせたいのですが…。

話を戻しますが、書かれていることには意味はありません。そこに意味が発生しているように見えるとすれば、この実験は失敗していることになります。が、その足掻きをみなさんに目撃してもらうことに意味があるとも考えていますし、目的は何もそれだけではありません。

もうひとつ私が詩で目指していることは、何か日常生活では見ることができない景色や感じることができない感情を発見してもらうことです。先述の目的は書き手としてですが、こちらは読者目線での目的です。読んでいただいた方に何か発見のあるものを書きたいと思っています。それはやはり知っている感情の焼き直しでは面白くないと思うからです。答え合わせではなく、私の詩は未知との遭遇であってほしいのです。それに、私には人並み以上の感受性はありません。感情のユニークさや情緒の書き起こし能力の無さからこういうことを考え始めたのかもしれません。

それでも「これは〜の詩だな」「これは〜について書かれているな」と感じてくださったならすべて正解だと思っています。それはみなさんの想像力が素晴らしいのであって、それを働かせるお手伝いできたのならこれほど嬉しいことはありません。そこから生まれるものは百通りあるかもしれない。私は無意味を目指しているにもかかわらず!ですが、たくさんの意味が生まれることは人間だからこそであり、とてもロマンチックなことだと思います。

既知の単語を並べて未知を書くのは簡単ではないので、そういう意味でも失敗しているかもしれません。であれば失敗作なのかもしれませんが、ぜひ意欲作、野心作と呼ばせてください。

考えてもらった説明文が気に入っているので、最後に載せて終わります。買っていただけると心から嬉しいです。よろしくお願いします。

「でも、人間そっくりにつくったタイプはこめかみに穴が開くと急激に衰えると聞いたけど全然まだ動いてるそうじゃないか」
詩誌聲℃同人、南北東西の第一詩集『Poolside Ensemble』。
どこまでも意味を宙吊りにされた言語たちが浮遊する詩的空間。
プールサイド的、夜行性の電話ボックス的、元チョウチンアンコウ的言語感覚を放つ新鋭詩人の清新な輝き!
飛びかう鮭の謎と塩イルカの本質に迫る野心作。
全26頁。

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