ブログ書けない病を脱したいときは黙って箇条書き

こんにちは。

書くことが思いつかないけれど、とにかくなんか書きたいのでエディタを開きました。なんも書くことねえな

  • バンドがしたい。でかい音で人と合わせたときの一体感を味わいたい。この間ひとりでスタジオに入ったら前より微妙に上手くなってた。自分でしか分からないレベルで、ちょっとずつ上達していっている気がする。
  • もし結婚して新婚旅行に行くことがあれば、フランスにあるポンヌフという橋を見たい。ついでにカラックスがつくった模造橋も見たい。『ポンヌフの恋人』のダンスシーン(?)が好き過ぎて定期的に見てしまう。
  • 何か飼うならでかい犬か、特にこだわりはないけど猫がいい。なんかしらの動物にヒトっていう動物として扱われたい。人間、自分が動物ってこと忘れすぎだと思う。忘れててもいいんだろうけれど、もっとでかいくくりで雑に扱われてもいい。
  • マンションとかアパートのドアってなんで重めの金属でできてるんだろう、木のドアって高級なのかな。こういうこと考えだしたとき、本当に無駄なこと考えてるなーって思う。でも、無駄なこと考えられるのは元気な証拠だとも思う。
  • iPhone8の画面をそろそろ修理したい。内部が見えてるスマホ使ってる人、IT企業に勤めてなさそう。Phoneって打つとき未だに「ぷほね」って思いながら打ってる。画面修理、調べたら2万円弱かかるっぽかった。Applecareっていう保証は2年で切れるんだな。金額的にスマホ自体を新しく買い換えるかけっこう悩むけど、そういう戦法か?次はiPhoneSEにしたい。画面サイズは求めてない。スマホのこと永遠に「携帯」って呼んでしまう。別に間違ってはないけども。
  • コーヒーの豆をカルディで買っているけれど、いつものと違うのにしてみようとすると高確率で好みを外す。店員さんに相談すればいいんだろうけれど、怖くて話せない。スタバで働いていた人とは思えないほどコミュ力は落ちつつある。
  • 会社の先輩と飲みに行って、友達認定してもらえて嬉しかった。勇気を振り絞って誘ってよかった。(本当に振り絞った。)東京に友達が少ないのでちょっとずつ仲良い人を増やしていきたい。コミュ力は落ちつつある。
道に落ちてたヤモリ?のキーホルダー、かわいかったから拾いたかったけど必死にこらえた。大人なので。
  • 一週間ほど前から日記をつけ始めた。誰に見せるわけでもないけれど、いつか見られてしまったときのために自分にしかわからない言葉で書いている。そういえば言葉が詩になり始めたのもそんな感じのきっかけだった。
  • 詩が1ヶ月くらい書けなかった。またスランプか〜と思っていたけれど、ピカソ展と岡本太郎記念館に行ったら元気が出て、書き始めることができた。ああいう凄まじいエネルギーの突出みたいなものを見ると、創作したい気持ちだけじゃなくて人生そのものがいきいきするなと思った。「いきいき」って言葉、ひらがなでいいのかしら。ピカソ展の展示映像で、「ピカソの生への渇望が〜」みたいなことを言っていて、もっと生きたい!って思えるくらい生きなきゃ人生もったいないなあと思ったりもした。そういう生き方ができるといいよなあ。
  • 趣味を聞かれたときにまず「詩」って答えたいけれど、それを面白がってもらえるかは別なので、最近見た映画とかハマってる音楽について話すことが多い。悩みはその良さをうまく伝えられないこと。特に映画の紹介は、普通の話みたいにオチを用意すればいいわけじゃない(ネタバレになる)からどんな順序で話すかが難しい。魅力的に話せるようになりたいなあ。『シン・ウルトラマン』は面白かったですよ〜
  • 久しぶりにWordじゃなくて携帯のメモで詩を書いたらスラスラ書けた。ページ区切りが無いのがいい。区切りに合わせて言葉を選ぶ必要がないのでより自由に書ける気がする。縦書き横スライドのメモアプリがあったら欲しい。
  • 毎朝散歩で同じ公園の同じ木を撮ってTwitterにあげている。始めて一年経ったので何か新しいことを、と思ってそのとき聴いている曲のスクショも一緒にあげるようにした。同じものを好きな人と繋がりやすくなると嬉しい。読んでる本とかももっと積極的に公開していきたい。好きなものでしか自分を説明できなくなるのは避けたいけれど。
  • 今はTempalayを聴いています。去年のフジロックでTempalayと坂本慎太郎を連続で見れたの本当に最高だったな。あそこを同じステージで連続にしようって言った人まじで良い仕事してくれてありがとう。
  • 最近はナスとかトマトが美味しくて嬉しい、夏サイコー。日本が常夏になればいいとは思ってないけれど、常夏の地域に住みたい。

書くことねえなとか言いながらけっこう書いたな。それでは。

詩についてvol.N/A

こんにちは。

好きなスタバカスタマイズは、カモミールティーラテのシロップを蜂蜜に変更するやつですが、いつも全てを忘れてラテにエスプレッソ1ショットを追加したやつを頼んでしまいます。

また詩の話をします。まじでなにをやってるんだろうな〜と思いつつ書きたいときに書きたいことを書いています。形は詩に近いので詩と呼んでいます。ただ、私には言いたいことなんて何もないし、見せたい景色だって何もないので、本当に言葉で遊んでいるだけですが、一応なんか知らない気分になれるものを目指しています。詩は読んだときに感じた何かそのものが詩(ちゃんと言葉にできないもの)だと思うので、それを生むか否かが詩であるか否かを分けるのだろうだと思っています。絵でも音楽でも映画でも景色でもそういうのを生むものは結局全部詩ではないかと思います。ポエジーの意味はよくわかりません。

詩とは何かと問われて「これです!」なんて一生言えない。20年そこらしか生きてないくせに千年の歴史がある詩を語るなんて恐れ多いし、できるわけないけど、今のところこんな感じかなと思っています。

詩とは何か永遠に知ることはないと思うので、一生批判もできません。屹立する山をただ眺めるような気持ちです。屹立という言葉は最近知ったばっかりでかっこよくて使いたかったので使いましたが、難しい言葉を使うのはできるだけ避けたいです。ついでにそういう言葉を使った難しい詩も苦手です。読む人に知識を要する詩はあまり好みではありません。

読む人に知識を要する詩はそれだけで「この言葉の意味がわかる人以外はお断り」のような敷居を感じてしまいます。自分が物知りでないために僻んでいるわけではありません(いや、そうかもしれない)。 詩はもっと開かれたものであってほしいと勝手に願っているからです。誰にでも開かれている教会のように。昔、読み書きができる人は一部しかいませんでした。今でもそういう国はあると思いますが、現代日本は識字率が高く誰もが書き言葉でコミュニケーションをとれます。であれば、わざわざ読める人を絞ってしまうのはもったいなくね?とも思います。あとは単純に読んでいるときに詩の流れを止めたくない。わからないところを読み飛ばしてほしくもないし、わからないからって辞書も引かせたくない。わかる言葉で書きたい。例えば、

本作は、彫心鏤骨とまでは言わないが大変に苦吟した。苦吟したからといって出色の作になるわけではない。良否を問えば悪くはないが、瀟洒と呼ぶにはほど遠い。私の趣味の詩はナンセンスで諧謔的なものだ。ナンセンス趣味なんて、詩人の能事とはと考えざるを得ないのだが。とはいえ、宇宙の寂寥を感じさせるような広狭のある詩には憧れる。

なんて。難しい言葉を無理に使いました。これはひどいけれど、こんな風にモヤがかかって、感じとれるものが曖昧になる。よくない。なんやねん寂寥て。かっこつけてんちゃうぞ!って思いますね。寂寥という言葉には、それにしか言い表せない含みがありますが、寂寥を知らない人は何も感じられないことになります。

この詩はめちゃくちゃ大変だったわけではないけれども作るのには苦労した。苦労したからって最高の出来になるわけではない。どっちかといえば悪くないけれども、垢抜けていてクールかと言うとそんなことはない。私の好きな詩は無意味で少し笑いどころがあるようなユーモラスなものだ。無意味なものが好きなんて、詩人の役割とは何か考えてしまうけど。とはいえ、宇宙の悲しい寂しさなんかを感じさせるような幅のある詩には憧れる。

みたいなふうに書きたいわけです。めちゃくちゃって言葉は身近で大好き。最近知った難しい言葉ばっかりでブログ書こっかな〜って考えてたのですが、読み手が減るよと言われました。要はそういうことです。かっこいいモデルみたいな詩ではなく近所の兄ちゃんみたいな詩を目指したいし、もっと言えば自分が知らないいろんな音楽を教えてくれる兄ちゃんな詩を書きたい。何を言っているのかわからなくなってきましたがそろそろ潮時ですか?

熱めで頼みたいのに、全てを忘れてショット追加までしか言えないので、スタバレジ前忘却病にでもかかっていると思います。

バドワイザーは瓶一択

こんにちは。

部屋が寒いです。おかしい。まだ10月半ばじゃん…って思ったけどもう10月半ばも過ぎてました。ついこないだまで暑かったから色々と勘違いしてしまっていたようです。でもビールはまだ美味しいですね、というかずっとおいしいですね。バドワイザーが1番好きです。苦さがマイルドで好み。

先日、詩の朗読というものに参加してみました。詩人扱いされて超絶照れ臭かった。私はまだ詩人なんかじゃないので、ただちょっと詩を書くのが好きなだけなんだよ…と思ってしまった。実際、自己紹介を求められても「詩を書くことが好きです」としか言えなかったです。笑

詩のことを真剣に考え始めて、というか、詩として書こうと思ってからまだ2年くらいしか経っていないけど、最近はそれが楽しくて仕方ないです。詩の講座に通い始めたのも今年のことで、筆名を変えたのも今年のことで、なんとなく自分の癖がわかり始めたのも今年のことです。そういえば全部半年以内の話か。

外に出したら意外と褒めてもらえたりして嬉しい。朗読も初めてのことだったけど、見てくれた人には褒めてもらった。嬉しい。ちなみに自分の朗読の録画は死ぬほど恥ずかしくて見られてない。たぶんこの先も見ない。

詩なんてキモいし、詩なんて独りよがりだし、詩なんてよくわかんないしまじで嫌いだったのですが、真剣にやればやるほど面白くて、好きになってきているなと感じます。詩を嫌う感情も面白いので、嫌いなままでいたいとも思っているのですが、嫌よ嫌よも…と言う通り、やっぱり魅力を感じてしまう。

わからなくて嫌いだった詩は、意味以外にも味わうところがあるなと実感できたのは最近のことです。もし今も詩に意味しか求めてなかったとしたら、自分が書いたのとほとんど同じ意味を持たせている詩に出会った途端、何も書けなくなっていた可能性もあるなと思います。もし書かれている意味だけを詩に求めているとすれば、私が下手に言い直す必要なんてないわけで、やめてしまっても構わない。でも、同じ意味であっても言葉を使った意味の磨き方は全然ちがうし、言葉による研磨力を高めることが詩を書く面白さでもある。

物事を見る目の鋭さや深さというのはすごい詩人のすごいところだけど、その目で見たものをいかに言葉で描くことができるかというのもすごい詩人のすごい理由だと思う。というかそれが詩人か。自分の目だけを期待していても、同じ目をもつ人に出会ったときに耐えられないと思うし、そこだけに期待するのはやはり違う。

そもそも、自分が考えていることのほとんどは他の人も考えているというのは当たり前なので、自分の考えがオンリーワンだとは全く思わない。…解散してしまった国民的アイドルのあの曲を否定しているわけではない。笑

だからこそ「表現」と言われるように「表現」力を磨かないといけないし、他の人とちがう「表現」をしなくてはいけないし、他の人の「表現」を勉強しなくてはいけない。

これは他の芸術(作られるもの全てを指したい)にも言えることだと思うし、詩もそこに含まれるというだけで、この話だって別に珍しい話ではない。私は最近やっと実感をもって気づくことができたよという報告にすぎない…。

芸術やらなんやらに触れる方の面白さもここにあって、意味がわからなくてもわからなさに触れられることが面白いのだと思う。わからなくていいし、わかりきったことを確かめても何もならない。ぬるい安心しかそこにはない。そういう普段の生活で感じられない危険さ?というか怖さを与えられるようなものをつくりたいなあ。いつも同じことを言っている気がする。

ありがたいことに詩に年齢は関係ない。肉体の衰えも、そこまで関係ない。もっとやれる余地がある。とか言って最近なんか調子のってていい感じだけど、そのうちまたもう無理だ書けねー!ってなる。どうせその繰り返しだ。

詩なんて流行らないし、別にイカす趣味でもないけれど、なんとなくやめられなくてなんだかんだやっている。言葉は誰でも使えるからこそ、もっともっと面白い使い方をしたい。諦めが悪いことは才能って言ってもいいかもねと友人と話したりしていました。これが才能なら、この才能だけは信じていたい。やめなかった者勝ちでしょ、たぶん。

バドワイザーがしんどくなっても、ホットコーヒーは美味しくなる。寒いのもまあ悪くないか。

詩について

こんにちは。

今日は詩について書きます。というか、思いっきりいつも以上に自分語りをします。備忘録です。

私が詩を初めて書いたのは小学校1年生の時。国語で「おれはかまきり」を習ったとき、みんなで詩を書く時間があった。私は、目に入るもの「消しゴム」とか「上靴」とかを題材にして書いた。消しゴムは、頭から擦り切れて消えてくのが嫌だよみたいなので、上靴はいつも踏まれてるから痛いみたいな内容だったと思う。暗いな。楽しくて休み時間になってもそのまま書きつづけていた。

それが初めてで、それから何年かして、小学校4年生くらいからまた言葉を書き始めた。幼稚園の頃から絵本をつくるのが好きだったけど、詩みたいな書き方をし始めたのはその頃だったと思う。

何かモヤモヤすることがあったとき、言葉を書くことが多かった。日記を誰かに見られるのが嫌で、自分にしかわからない言葉で気持ちを残そうとしていく内に、文章がどんどん抽象的になった結果だった。私の中でそれは詩ではなく、言葉の塊としての何かでしかなくて、大学生になるまでずっと「何か」として扱っていた。歌詞として書いたものをバンドメンバーに見せる以外は、人に見せることもしなかったし、2、3人の読者がいたアメーバブログに細々と投稿していた。

大学に入ってすぐの頃、tumblerブームが起きた。あれはブームだったのか、私の周りだけだったのか定かではないけれど、私もtumblerを使って自分のウェブサイトをつくった。なんとなく載せた「何か」を見てくれた人が、「詩書くんだ、すごいね」と言ってくれた。私は自分が書くものが詩なんていうそんな素敵なものではないと思っていたから、この一言がかなり衝撃的だった。私の言葉は感情の排泄物で、いわば汚いものだと思っていたのに、「好きだ」とまで言われた。そこから、私が書くものは詩なんだろうか、と大学生時代4年間ずーーーーーーっと考えることになった。

所属していたサークルで展覧会を開くことが多かったので、何か作品を出すとなれば私には言葉しかなかった。当時は興味がそれしかなかったし、なんとなく見せられるものもそれしかなかった。(展覧会のために作品をつくるというのも順番が変なのかもしれないけど、さぼり癖が酷い私にはありがたい環境だった。)

私の書くものが詩だとしたら、詩はどれも感情の排泄物で、美しくないもの。独りよがりなもので、見られることを意識しないで存在できるもの、というのが当時の私の考え方だった。自分の排泄物を愛することなんて到底できないけれど、少数ながら愛してくれる人もいることが、うれしくもあったし苦しかった。こんな話をすると、芸術家気取りと言われそうで怖いけれど。

見せること、見られること、作品が生まれる根源の美醜、いろんなものがコンプレックスになって、詩も詩人も芸術もすべてが嫌いになった。私の詩も含めて、わかりにくいのに意味ありげにたたずむ全てのものが嫌いだった。意味があることをひた隠しにしてわかりやすく伝えずに意味を考えさせるってもう意味がわからないし、ひねくれすぎている。もしかして作者はなんの意味も込めずに観客に丸投げしているんじゃないか?それってずるすぎないか?とか。私にとっては、感情をぼかすように書いてきたものが始まりだったから、自分と自分の言葉を否定する行為でもあった。

でも、展覧会はやるので、人に見せる形にしなくちゃいけない。観客を無視していてはいけない。だからせめてそこにあるだけで楽しいと言われる形、ポップでとっつきやすくしなきゃと思った。初めは詩を簡単なグラフィックに起こして詩集をつくった。言葉の意味がわからなくても、めくってるだけで楽しいなら、存在していても許されるし、見たいという気になってもらえるかなと。

指の火傷が気になるやたら綺麗な画像

詩の朗読を重ねた実写映像もつくった。耳から聞くほうがわかりやすいかもと思ったし、自分で解釈しようとしなくても、映像が解説してくれる可能性があると思った。

詩を諦めて短い小説も書いた。校正を入れずに自分ひとりで書き上げたら、支離滅裂になってしまったけど。

で、シャワーをつくった。いろいろと諦めた末の作品だった。もう詩なんて大嫌いだったから、詩を破壊する制作にしようと思っていた。そうなると詩とは何かを勉強しなくてはいけないから、関連する本を何冊か読んだ。ただ、びっくりするけれど、私はこのとき誰かの詩をひとつも読まなかった。この頃、知り合いに、「もし瀬蔦さんが書くものが詩なら、他の人の詩を読まなきゃなんか失礼ですよね」と言われたことがある。確かにそうだけど、アレルギーすぎて無理だったんだよな。というか誰が他人の感情の独りよがりな自慰を見たいんだという気分だった。

キャプチャしたのバレバレの使い古された画像

今思うと、このテーマのままやれることがたくさんあったと思う。ただ、最終的には、言葉が流れ落ちていくことを別のテーマにすげ替えてつくった。もうわかりにくいと言われることも嫌だったし、わかりにくいものはこれ以上つくりたくなかった。わかりやすく共感を得たくなってしまったから。

ただ、このシャワーを展示してわかったのは、わかりやすいものは放つ意味がないということ。だって、テーマが自明だから。ということだった。つくる意味がない、いつもわかっていることの再確認は不要なんだと気づいた。詩はわかりにくくて、わからないけれど、脳みそを使うし、そういう意味であってもいいと思うことができた。先に進みたくてとりあえず自分の書くものを詩と呼ぶことにして、コンテストにも出し始めた。それはつい3年前のこと。

今日、最果タヒ展に行った。パンデミックの中で、申し訳ないと思いながらも、行かなきゃ後悔すると思ったから。今まで何をやりたかったのか、ここに全てがあった。

空間が詩だった。

詩というものは、言葉の並べ方や句読点の使い方、詩の出どころとなった感情の美醜には全く左右されず存在できるということだった。空中に吊り下げられたぶつ切りの言葉の中で、詩は言葉の連なり方だけが重要なのではないと気づいた。一度並べた言葉をまたばらばらにしてぶつ切りにして放り投げてもいい。それもまた詩として存在できる可能性がある。なんというか、今、ここにいて、この感情が溢れたのはまぎれもなく空間と言葉の力であり、ひとりひとりの心に生まれた感情そのものが詩なのだということ。それは、お前らが意味を考えてくれ!と観客に投げるのではなく、作者が狙った意味は観客の生む詩になってもいいのだということ。紙一重だけど全然ちがうんだよなあ。

会場で私はひとり目を潤ませてしまい、薄暗いところで必死に考えを綴った。それがこれ。

会場には何人かいて、それぞれがそれぞれに楽しんでいた。言葉をひとつひとつ噛み締めるように眺めている(ように見えた)人や、写真を撮って楽しんでいる人、でも、なんかもうたぶん詩の楽しみ方ってそうなんだなと思った。そして、彼彼女の心のうちに生まれている感情そのものが詩なのだと思った。

人に何かを伝える手段が言葉に一任されていることが悔しい。言葉はやはり完全ではない。ここにイメージとして感じられるものを言葉を鏡としてまるっきり同じものを映し出すのは難しい。

そういう意味で、まるっきり同じものを言い換える形ではなく、言葉と言葉の間を人の想像と感情で補完させることで、何かを伝えられるのかもしれない。それも詩なのかもしれない。というか、それが詩なのかもしれない。

もし、これが詩で、これは詩ではないという線引きをするなら、感情を生むか生まないか、ということなんだと思う。たぶん、そうじゃないかなと今はとりあえずそう思う。私がかくものはやはりまだ詩には及ばない、だからまだ詩ではないかもしれないけれど、詩の赤ちゃんくらいにはなれるのかもしれない。いや、もう、線引きをするのが野暮なのか。そこらじゅうにある、詩はある。

詩を教科書に載っている形に押し込めるのではなく、もっと解放できるはず。私は「よりわかりやすく見せるため」にいろんな形にしてやっていたことだったけど、やっぱりその実験って面白いよなあ。言葉をもっと別の形で表したい。たぶん詩じゃなくてもいいな。形式として詩と呼ぶ形に拘らなくてもいいな。そんなわけで、嬉しかった。良い方向に進めばいい。

今日は、私の中で自分の興味を思い出すことができた。とてもとてもとても嬉しい。小学生の頃の誕生日の前日のような、そんな気分。

ちなみに、彼女の詩を読めるようになったのはつい最近のこと。目指したいそのままの言葉の形が羨ましくて、苦手だったんだな。ガキめ。笑