thoughtful

こんにちは。

トロントめっちゃ寒くて死にそうです。昨日の夜は3℃でした。早いわ。来週で語学学校も終了。というところに来て、英語の上達をひしひしと感じています。

最近は地下鉄でネイティブに話しかけられても、1発で理解できるようになってきてるし、答えを返したときにSorry?とか苦笑いで聞き返されることも減って来た。学校でも幸か不幸か日本人の友達がほぼいないということもあって、英語しか使わねえ〜みたいな毎日を送っています。おかげさまで、話す方の日本語は前よりももっとガタガタになってしまいました。ときどき友達と電話すると感じる。日本語で文を組み立てるのはやっぱりむずかしい。

ただ、今でもカフェでコーヒー頼むのはもたついてしまう。毎日言ってるくせに”Can I get one medium roasted grande coffee?”が下手くそ。これはなぜかいつまでも言えない気がする。

ブラジル人のクラスメイトに「日本人と韓国人の英語は、めっちゃ聞き取りづらいけど、君の英語ははっきりわかる」って言われたことが最近のハイライト。そこまで発音に自信あるわけではないけど、頑張ってる部分だからそりゃ嬉しい。まあ、日本人発音でバカにされることもあるけど。(こないだはthoughtfulの発音で友達にいじられまくった。くそ…) 

語学学校いかなくてもいいって人もいるけど、行ってよかったなあーと、私はとても思う。ネイティブから習う英語は日本語の参考書とは根本的に違う気がする。あと、知り合いができるってのはめちゃでかい。仲良くなくてもとりあえずごはん行ってとりあえず遊びに行く。共通言語がないから英語使うしかなくて、英語で話すしかない。どうにかこうにか説明しようってしてるうちに、まあ上達するわいな、という。

おもんないやつと思われたくない、どうしてもおもろいことを言いたいという気持ちが強く出てしまうので、適当な冗談を言っては笑わせにかかってしまう。昔じゃ考えられんくらいしゃべる奴になった。アクティブなアジア人は少ないから目立つんだろうなあ。みんな、シャイでありがとう。笑 教室でも意味わからんくらい発言してるので、先生が気に入ってくれる。まあ、先生に気に入られるのは私の得意技なんだけども、笑

ネイティブと触れ合う環境ってたぶんけっこう作りにくいもんで、先生の存在はとてもありがたい。年が近いから、先生っていうよりは近所のお兄ちゃんとか、親戚のいとこっぽい。…ってのもあって、特に用はなくても適当に話しかけて、質問しまくって、とりあえずとりあえずで超しゃべってる。最初は意味わかんなくて雰囲気でしか笑えなかった先生の冗談も、今は聞き取れるし、ちゃんと理解して笑える。めっちゃたのしいから卒業したくねえ〜。

それから、英語は言葉だから、ニュアンスが大事だなあとこっちに来てめちゃくちゃ思う。willとbe going toなんて未来形だから一緒じゃんって思ってたけど、実はちょっと違ったりするっぽい。もちろんその違いは授業で習ったけど、先生がそれを使うのを聞きまくって、やっとなんとなく掴めてきてる気がするんだよな…。英語の詩を楽しめるのはいつになるかなあ。言葉のニュアンスを感じて、楽しめるようになりたい…。

リーディングの方は全然練習してないからざっと読みが早くなったな、ってくらいだけど、スピーキングとリスニングはまじで伸びたと思う。いろんな人と話せるのが楽しくてたまらない。

あと、これは私感なのだけど、英語がまったくできない状態でローカルの仕事探すのは不可能に近い。笑日本でも日本語が全然できない海外の人を雇うのはなかなかないと思うけど。日本人がスタッフのとこならそりゃ即採用だけど、それがどうしても嫌で。わがままかな。

行く前はそっこーで仕事見つけてやるって意気込んでたけどなあ〜。まあそんなにうまくいくもんでもないよな〜。まず学生ビザでそれなりに基礎をつけて、あー、英語慣れてきたなって頃にワーホリビザに切り替えるって方法が最高だよなあ、と思ったりして。ほんとめっちゃ私感なんだけど。

トロントは寒いけれど、英語は楽しいです。カナダで出会った人にも、日本の友人や家族にも、いろんな人に助けてもらいながら、どうにか生きてます。

でも、なんだかんだ、生きるっていうより、生かされてるんだよなあ。なんて月並みなことを感じるのに、ものすごく時間がかかっちゃった。なんちって。

家の目の前にある時計台

空港で寝るなら不審者を装え

こんにちは。お久しぶりです。1週間弱、姉の結婚式のために帰国していました。今は再びカナダにいます。

カナダにいる間は、まだ4ヶ月しか経ってないのか〜とか思ってたんですが、いつのまにかしっかり時間は経ってて。もう9月ですね。びっくり。来たる冬にびびりまくっています。夏めっちゃ快適でした。日本が汗でズクズクになってる間に涼しい風に吹かれちゃってすみません。今日の気温はすでに17度です。

ワーホリのビザではありますが、実はまだ仕事してません笑 その間は語学学校に行ったり、図書館に通ったり、4ヶ月の間に6回引っ越したりしてました。笑

引越したくてしてたわけではなくて、やむを得ずだったわけですが、いろんな部屋に住めるのは面白い。なかなかできる経験じゃない。笑

今は床の傾斜がやばい部屋です。ヨーロッパのボロアパートみたいなところで、何人住んでるのか謎です。アリの巣みたいな広がり方をしていて部屋数も謎ですが、20人以上いるのかな…。最低6ヶ月契約なので、やっと落ち着けそうです。

姉の結婚式、中座のときのエスコートができて最高でした。あれ、憧れだったので…。旦那さんはとてもいい人で、私も大好きです。今まで私と姉で2人で悩んできたようなことも、これからは旦那さんが担ってくれるんだなあと思うと安心。姉が幸せそうで本当に嬉しかった。

日本にいる間、いろんな人が連絡をくれて、思ってたよりかなりたくさんの人に会えました。お茶やごはんに行ってくれたり、乗り継ぎの空港に来てくれたり、お見送りしてくれたり。コンビニのオーナーとタバコ吸ったり。笑 こうやって会いたいと思ってくれる人がいることを単純にとても幸せだなあと思いました。

学校生活中はそこまで仲良くなかった人とも、ほんとはもっと仲良くなりたかったんだよねえとか言って卒業後にごはん行けるようになったりして、そういう関係の作り方を最近学んでいます。

落ち込んだり悩んだりして生きるのに投げやりになる瞬間ってのは誰にでもあるわけで。でもそういうのもいろいろと帳消しになるっていうか、もうちょい居てみるかって思えるっていうか。この先ずっと関係が続くとして、友人たちとできるかもしれない話や経験を自分から無しにしちゃうのはちょっと惜しいよな。

とか言ってほんとに誰かのことを大切にできているのかなんて分からないわけですが。笑

死んじゃったらもったいないよっていうのはよく言われる話ですが、何がもったいないかっていうのは人によって違うんだと思います。命は奇跡なのに大切にしないこと。今まで乗り越えてきたつらかったことが無意味に消えてしまうこと。これから起こるかもしれない楽しいことの可能性を潰してしまうこと。まあ、そういうことを考慮する余裕がなくなるから強制終了が起こるんだと思うのですが。ただの偶然を奇跡とか言っちゃうんだから。ねえ。笑

生まれるのと死ぬのはタイミングが選べないという不条理。なんで自分の意思で進められないのか。悲しい。

あ、そういや空港で寝るのアリでしたね。行きはサンフランシスコで12時間、帰りは関空で10時間つぶしてたんですが、全然寝られますね。おかげで気づけば寝る予定じゃない空港で、寝やすそうなベンチを探してしまっています。

サンフランシスコ空港

帰り、乗り継ぎのためにサンフランシスコに再び行ったのですが、飛行機が6時間以上遅延しました。ので、地下鉄のってサンフランシスコのダウンタウンに行きました。アメリカだからってことでベタにでかいハンバーガー食べて、路面トロッコ?見て1時間半くらい散歩しまくって満足しました。アメリカでハンバーガー食べるのやってみたかった。次行くときあれば、でかくて固いステーキ食べたいな〜。

サンフランシスコのでかいハンバーガー

カナダにいる間にオーロラが見たい。来年はオーストラリアに行きたいし、運良く稼いでヨーロッパ行けるとこ全部行きたい。そのあとのことはそのあと考えます。変な選択をして、面白いというかおもろい人生を送りたいです。だめかな。笑

あと、思潮社の現代詩コンクールの一次通ったことが今1番嬉しいことです。私の書くものが人から見て詩として認められるのかを試すというのが今回の目的だったのですが、一次に通ったということで、とりあえず詩と言ってよさそうです。詩人と呼ばれる人たちに見せる自信がないということ。詩ではないとなったときにどうしようもなくなること。良い悪いで判断されたくないこと。…こんなことでめちゃくちゃ出すか渋ってました。まあ、出してよかったです。一次通ったから言えますが。笑初めてのコンクールだから二次に落ちても上出来だな〜。笑

調子に乗れるだけ乗って、自分で自分を買いかぶりたいと思います。次に会ったとき、詩人ぶってうざくなってたらしばいてください。笑

カンジュセイテスト

まどみちおの詩集と、谷川俊太郎の詩集を一冊ずつもってきています。

さっきまどみちおの方をぱらぱら見ていたのですが、なんだかお前の心なんてゴミだと言われている気がして閉じました。笑

詩を読むというのは本当に体力を使うことで、何か感じないと殺される気持ちになる。美術館に行くときや、映画を観る時も同じ。何も感じられなかったら、どうしよう。何も感じられなかったら、私の心は失格なんじゃないだろうか。いつもそんなことを考えてしまいます。

わかったような顔をして芸術に触れたくない。わからないものはわからないと言いたい。だけど、本当にわからなかったらどうしよう。別に誰も期待してないのに、自分に対して「感じているフリ」をしているときがあるような気がします。

この間、トロントのオンタリオ美術館に行ってきました。

学校のクラスメイトに、水曜日の18時以降は無料で常設展を見ることができると教えてもらったからです。びっくりするほど広かったので、全部を見ることはできなかったけれど、かなり楽しかったです。腰パンのヤンキーっぽい兄ちゃんグループとか、ランニングついでっぽい人とか、いろんな人がいっぱいいて、みんな好きなように話してたのにはびっくりした。美術館で笑い声が聞こえるってのもなかなかない気がする。笑

それから、オリジナルのモネの絵を見られて超感動した。別にモネの絵が特に好きだとか今まではあんまり思ったことがなかったのですが、あれはまた見たい。

英語のキャプションがついているために、わからない単語もちらほら。疲れてくると読めないし、そうなってくると、もう絵だけを見るしかない。ぼーっと見ててもわからない。こうかなあ、こういうことが言いたいのかなあ、とか思いながら。どういう風に見ればいいのかわからずに、相当苦労しました。タイトルやキャプションという言葉の補完があるからこそ、初めて伝わることがあるなあと思いました。感じ方の方向性を教えてくれる誘導灯のような。意味を考えないといけないものは特に。

そういえば、初めて実験映画を見た1回生のときに、これは見てられない!無理だ!と思った覚えがあります。というのも、何が言いたいのかわからないのに感じることを強要されている気になってしまったからです。強い何か訴えかけてくるようなものがあるような気がするけれども、それがなんなのか全くわからず、ストレスすぎて見るに耐えませんでした。

だけど、4回生になってとった授業で、実験映像は「新しい手法を試すための映像」だから、その写ったもの自体に意味があるわけではないということを学びました。見た目が奇抜なものが多いから、内容に意味があるような気になってしまうだけ。つくられたことに意味があって、発表されたことに意味がある。作者自身に意味があって、その分野の成長のために意味がある。それは映画史の授業だったけれど、ほかの美術史を学ぶ中でも、それが一番衝撃的なことでした。当たり前なんだろうけど。

そういうもののほうが本当は多いかもしれないのに、なぜかそこに内包されていそうな意味を読み取ろうと思ってしまう。見方を間違うとしんどくなる芸術もあるんじゃないか…?

見方をわかりやすく示せばもっと楽に楽しめるようになるのかもしれないなあ、なんて思ったりして。わかるからこそ楽しいものもある。だからわかんないならもっと単純な感想で、綺麗、とか、怖い、とかだけでいいはずなんだよなあ。

次の日、教えてもらったクラスメイトに美術館に行った話をしました。モネの絵がやばかった!本当に綺麗だった!と言ったら、「やばかったよね!わかる!感動した!モネいいよねえ〜」と言っていました。私の英語力がないのもあって、綺麗だったとしか言えないというのもあるけれど、そこで見たモネは本当に綺麗としか言えなかったんだよなあ。あと、英語で好きなものを共有できたの、めちゃくちゃに嬉しかった。大したことは言えてないけど、カナダに来てよかった〜!って思った瞬間でした。笑

試されてるわけでもないんだから、なんかいいよね〜くらいで、まどみちお読みたいなあ。笑

トロントにも桜はある